精神と文明は、どのように互いをつくるのか ― 人間を育てる生成の循環

はじめに:文明は、どのように精神に働きかけるのか
前の記事では、社会が豊かになることと、人間の精神が豊かになることは、必ずしも同じではないと考えました。
私たちは、人類が長い歴史の中で生み出してきた文明に囲まれて生きており、過去の人々が残した言葉や思想、文学や芸術などに触れることで、自分では思いつかなかった考えに出会い、それまでとは違うものの見方を持つことがあります。
では、文明は、どのように私たちの精神に働きかけるのでしょうか。
そして私たちの精神は、文明から何かを受け取るだけなのか、それとも、受け取ったものを自分の中で変えながら、再び文明へ返しているのでしょうか。
今回は、この問いを考えるために、生物と自然、個人と社会という関係から出発し、精神と文明の関係を考えてみたいと思います。
生物は、自然という生成場の中で生成する
生物は、自然から切り離されて存在することはできません。
水、空気、光、気温、土壌、植物、動物、微生物など、さまざまなものとの関係の中で、生命は生まれ、育ち、変化していきます。
つまり、生物はそれだけで独立して成立するのではなく、自然という場の中で生成する存在だと考えることができます。
ここでは、ある存在が生まれ、育ち、変化するとともに、そこで生成した存在によって自らも変化していく場を、生成場と呼んでみたいと思います。
自然は生物を生成しますが、生物もまた自然を変えていきます。
植物は大気や土壌を変え、動物は植物の種子を運び、微生物は土をつくり、生物の活動そのものが長い時間をかけて自然環境を形づくってきました。
つまり、自然が生物を生成し、生成した生物が自然を再び変えていくという循環があります。
個体どうしの関係から、社会が生成する
生物が生まれると、生物どうしの間にも関係が生まれます。
たとえば蟻の社会では、多数の個体が互いに働きかけながら、食べ物を運び、巣を守り、幼虫を育てることで、個体だけでは存在しなかった一つの秩序が生まれます。
そこには、人間のような思想や哲学がなくても、社会が成立しています。
このことから考えると、社会とは、複数の個体が互いに関係し、その関係から持続的な秩序が生成したものと捉えることができます。
そして、いったん社会が生成すると、今度はその社会が個体の行動や役割を方向づけます。
つまり、個体どうしの関係から社会が生成し、生成した社会が個体の行動を形づくるという相互的な生成が起こります。
個人は、社会という生成場の中で生成する
人間の場合も、個人は社会から切り離されて形成されるわけではありません。
私たちは、家族の中に生まれ、言葉を覚え、人との関わり方を学び、学校や職場や地域の中で他者と関わり、さまざまな役割を担いながら、自分がどのような存在であるかを形づくっていきます。
つまり、個人は社会という生成場の中で生成すると考えることができます。
しかし、個人もまた、社会によって一方的につくられるだけではありません。
一人ひとりが行動し、他者と関係を結び、仕事をし、意見を表し、制度を変えることで、社会そのものも変化していきます。
したがって、社会が個人を生成し、個人が社会を再生成するという循環があります。
人間には、もう一つの生成場がある
しかし、人間を社会の中で生きる個人として捉えるだけでは、十分に説明できないことがあります。
私たちは、直接会ったことのない人からも大きな影響を受けることがあるからです。
何百年も前に書かれた本を読んで、自分の考えが変わることがあります。
すでに亡くなった人が残した言葉によって、自分の人生を考え直すこともあります。
その人と社会的な関係を持っているわけでも、同じ時代に生きているわけでもありません。
それでも、過去の人が考え、感じ、表したものが、現在の私たちの精神に働きかけることがあります。
ここに、社会とは区別して考えることのできる、もう一つの生成場が見えてきます。
それが、文明です。
文明では、精神と精神が時代を越えて関係する
社会を成り立たせる基本的な関係を個体と個体の関係として捉えるなら、人間にはさらに、精神活動の成果を介して精神と精神が関係する次元があります。
もちろん、何百年も前に亡くなった人の精神そのものが、現在そこに存在しているという意味ではありません。
その人が考えたことや感じたことが、言葉や文章、作品、道具、技術などの形となって外に残され、それを別の人が受け取ることができるということです。
人間は、考えを言葉にし、物語を書き、絵を描き、音楽を生み出し、道具をつくり、新しい技術を生み出すことができます。
精神活動は、作品としてだけでなく、人への接し方や仕事の仕方、生き方や行動として外に現れることもあります。
こうして精神活動の一部が外へ現れることで、その人が亡くなった後でも、それが別の人の精神に働きかけることができます。
文明によって、人間の精神活動は、個人の生涯や同じ時代という限界を越えて関係できるようになります。
この意味で文明は、精神活動の成果を介して、精神と精神が時間と場所を越えて関係する生成場と考えることができます。
精神活動は、内在化・生成再編・外在化を繰り返す
ここでは精神そのものを固定的に定義するのではなく、文明や経験との関わりの中で起こる精神活動に注目してみたいと思います。
その精神活動は、大きく三つの過程として捉えることができます。
内在化。
生成・再編。
外在化。
まず、私たちは文明や日々の経験から、さまざまなものを受け取ります。
本を読み、人の話を聞き、映画を見て、音楽を聴き、歴史を知り、さまざまな思想や表現に触れます。
また、人との出会いや仕事、病気、失敗、喜びや悲しみなど、日々の経験からも多くのものを受け取っています。
文明や経験から受け取ったものを、自分の内側へ取り込んでいく過程が、内在化です。
しかし、人間は受け取ったものを、そのまま保存しているわけではありません。
それまでの自分の経験や記憶、感情、価値観、知識と結びつけながら、その意味を考えます。
そこで、新しい理解が生まれたり、それまで大切だと思っていたものが変わったり、自分や世界についての見方が組み替わったりします。
これが、生成・再編です。
そして、そこで生まれたものが、言葉、行動、作品、考え、技術などとして再び外へ現れることがあります。
これが、外在化です。
つまり精神活動は、文明や経験から受け取り、自分の中で生成・再編し、それを再び外へ返していく過程として捉えることができます。
生成・再編によって、受け取ったものは新しくなる
この三つの過程の中で、特に重要なのが生成・再編です。
同じ本を読んでも、すべての人が同じことを考えるわけではありません。
たとえば同じ『論語』を読んでも、人との付き合い方について考える人もいれば、社会のあり方について考える人もおり、自分の生き方を振り返る人もいるでしょう。
それは、受け取ったものが、その人自身の経験や記憶、感情、価値観と出会うからです。
考える。
感じる。
問い直す。
比較する。
結びつける。
振り返る。
想像する。
こうしたさまざまな精神活動によって、受け取ったものは、その人の中で新しい意味を持ちはじめます。
深く考えることは、その重要な一つです。
しかし、生成・再編は、考えることだけによって起こるわけではありません。
誰かとの出会いによって、それまでの価値観が変わることがあります。
病気や失敗などの経験によって、人生の見方が変わることもあります。
芸術に触れ、うまく言葉にできないまま、世界の見え方が変わることもあります。
長い時間をかけて、少しずつ理解や価値観が変わっていくこともあります。
つまり文明は、同じ精神を繰り返し生み出す鋳型ではありません。
文明は、人間の精神を一つの形に決めるのではなく、新しい精神が生成するための素材や可能性を与える生成場なのです。
外在化によって、精神活動は個人を越える
精神の中で生まれたものが、必ず外在化されるわけではありません。
誰にも語られなかった深い洞察もあります。
言葉にされなかった価値観もあります。
一人の人間の内面だけで進んだ精神的な成熟もあります。
それらも、精神活動として確かに存在しています。
しかし、その中の何かが外在化されると、精神活動はその個人を越えていく可能性を持ちます。
ある人が考えたことを文章にし、その文章を別の人が読み、読んだ人の中でまた新しい考えが生まれることがあります。
その人がさらに誰かと語り合ったり、新しい文章を書いたり、行動を変えたりすれば、一人の精神活動が別の精神活動の出発点になります。
こうして精神活動は、個人から個人へ、時代から時代へと受け渡されていきます。
文明は、蓄積されると同時に生成し続ける
文明には、長い歴史の中で蓄積されてきたものがあります。
書物、美術作品、建築、思想、科学、技術など、人類が残してきたものは、文明の重要な蓄積です。
しかし、それらが保存されているだけでは、文明は現在の精神を生成する力を十分には発揮できません。
本が読まれる。
作品が見られる。
思想が考え直される。
技術が新しい使われ方をする。
そうして過去に外在化された精神活動が、現在の誰かに内在化され、その人の中で再び生成・再編されることで、文明は現在の精神に働きかけます。
さらに、そこで生まれたものが外在化されれば、文明そのものも少しずつ変化していきます。
したがって文明は、過去から受け継がれた蓄積であると同時に、精神活動が世代を越えて循環しながら生成し続ける場でもあります。
文明から精神へ、精神から文明へ
ここまで考えると、精神と文明の関係が見えてきます。
文明は、人間にさまざまな言葉や考え、表現や経験を提供します。
人間はそれを内在化し、自分の経験と結びつけながら生成・再編し、ときに新しい形で外在化します。
その外在化されたものが文明に加わり、また別の人の精神に働きかけます。
つまり、
文明 → 内在化 → 生成・再編 → 外在化 → 文明
という循環が続いています。
文明が精神を一方的につくるのではありません。
精神が文明を一方的につくるのでもありません。
精神は文明の中で生成し、生成した精神の活動が文明を再び生成する。
精神と文明は、互いを生成し続けているのです。
自然・社会・文明には、同じ生成構造が見える
ここで、最初に考えた自然と生物、社会と個人の関係へ戻ってみましょう。
生物は、自然という生成場の中で生成します。
そして生物の活動が、自然を変えていきます。
個人は、社会という生成場の中で生成します。
そして個人の行動が、社会を変えていきます。
精神は、文明という生成場の中で生成します。
そして精神活動の外在化が、文明を変えていきます。
つまり、
自然 ⇄ 生物
社会 ⇄ 個人
文明 ⇄ 精神
という三つの相互生成が見えてきます。
もちろん、自然と社会と文明は、互いに完全に分かれているわけではありません。
社会は自然の中で営まれ、文明も社会を通して受け継がれていきます。
それでも、それぞれを生成場として区別することで、何がどのように生成しているのかが見えやすくなります。
そして三つの次元には、生成場が存在を生成し、生成された存在が生成場を再び変えていくという似た構造があります。
ここでは、このような似た生成構造が異なる階層に現れることを、生成のフラクタル構造と呼んでみたいと思います。
おわりに:精神と文明は、互いを生成し続ける
私たちは、文明の外側に立って、それを眺めているわけではありません。
生まれたときから、すでに文明の中にいます。
言葉を学び、物語を知り、過去の人が残したものに触れ、それらを通して世界を見ています。
しかし、私たちは文明によって一方的につくられているだけでもありません。
受け取ったものを、自分の経験の中で感じ、考え、問い直し、生成・再編しています。
そして、その一部を言葉や行動や作品として外へ表しています。
文明は、そのような精神活動の循環によって、長い時間をかけて変化してきました。
精神は文明という生成場の中で生成し、生成した精神の活動が文明を再生成する。
私たちは、この循環の中を生きています。
では、その精神は、どのような経験によって、より豊かに生成・再編されていくのでしょうか。
次の記事では、精神を豊かにする生き方とは何かを、出会い、経験、思索、創造という視点から考えてみたいと思います。

