豊かな社会は、人間の精神も豊かにしたのか ― 効率の先にある文明の豊かさ

はじめに:私たちは、本当に豊かになったのか
朝起きれば、スマートフォンで今日の天気を確かめ、電車の時刻を調べ、遠くにいる人へすぐに連絡することができます。
分からないことがあれば検索すれば、多くの場合、数秒のうちに答えの手がかりが見つかります。
欲しいものは家にいながら注文でき、見たい映画や聴きたい音楽にも、その場ですぐに触れることができます。
仕事でも、コンピュータやAIが、調べること、計算すること、整理すること、文章をつくることまで助けてくれるようになりました。
病気になれば、かつては考えられなかったような検査や治療を受けられることもあります。
少し前の時代の人から見れば、私たちは驚くほど便利で豊かな社会に生きています。
では、その社会の豊かさによって、人間の精神も同じように豊かになったのでしょうか。
私たちは多くのものを手に入れましたが、その一方で、日々の生活に追われ、立ち止まって考える時間がないと感じることがあります。
膨大な情報に触れながら、一つのことにじっくり向き合うことが難しくなっていると感じることもあります。
便利になったはずなのに、なぜかいつも忙しい。
多くのことを知れるようになったのに、自分が何を大切にしたいのかは、かえって見えにくくなることもあります。
社会が豊かになることと、人間の精神が豊かになることは、本当に同じなのでしょうか。
今回は、この問いから考えてみたいと思います。
私たちの社会は、確かに豊かになった
まず、現代社会がもたらした豊かさを、きちんと確認しておきたいと思います。
水道をひねれば安全な水を使うことができ、スイッチを押せば明かりがつき、暑ければ冷房を使い、寒ければ暖房を使うことができます。
洗濯機や掃除機などの家電は、かつて多くの時間と労力を必要とした家事を軽くしてきました。
交通機関の発達によって、遠くの場所へも短い時間で移動できるようになりました。
通信技術によって、離れて暮らす家族や友人とも、簡単に言葉を交わせるようになりました。
医療や衛生の発達は、多くの病気や苦しみを減らしてきました。
教育の機会も広がり、多くの人が知識や技能を学び、自分の人生を選ぶ可能性を持てるようになりました。
社会保障や福祉の仕組みも、人が一人では支えきれない困難を社会全体で支えようとしてきました。
こうした社会の発展によって、私たちは日々の生存や生活に必要な負担を軽くし、より多くの選択肢を持てるようになってきました。
より安全に生きること。
健康を守ること。
学ぶこと。
働くこと。
人とつながること。
自分の人生を選ぶこと。
こうした可能性を広げてきたことは、現代社会の大きな成果です。
しかし、生きる条件が豊かになることと、その中で生きる人間の精神が豊かになることは、同じではありません。
効率化したのに、なぜ私たちは忙しいのか
現代社会は、さまざまな場面で効率を高めてきました。
昔なら何日もかかった連絡が、今では数秒で届きます。
図書館へ行って何冊もの本を調べなければ分からなかったことも、検索すれば短時間で多くの情報を得られます。
会議の資料をつくることも、計算することも、予約することも、買い物をすることも、技術によって大きく時間を短縮できるようになりました。
効率化とは、同じことを、より少ない時間と労力で行えるようにすることです。
それなら本来、私たちの生活には、もっと多くの余白が生まれてもよさそうです。
ところが、実際にはどうでしょうか。
メールをすぐ送れるようになると、返事もすぐ求められるようになります。
多くの情報を短時間で集められるようになると、さらに多くの情報を処理することが求められます。
一つの仕事が効率化されれば、空いた時間に別の仕事が入ってくることもあります。
仕事が終わっても、スマートフォンには次々と新しい情報が届きます。
短い時間ができれば、ニュースを見る。
SNSを見る。
動画を見る。
別の情報を探す。
いつの間にか、効率化によって生まれたはずの余白まで、何かで埋められていきます。
効率そのものが悪いわけではありません。
問題なのは、効率によって生まれた時間を、私たちは何のために使っているのかということです。
情報は増えたが、深く受け取れているだろうか
現代ほど、多くの情報に触れられる時代はありません。
世界の出来事をその日のうちに知ることができます。
歴史について知りたければ、すぐに資料を探せます。
知らない土地の映像を見ることも、外国の人の考えを読むこともできます。
知ることのできる範囲は、かつてないほど広がっています。
しかし、多くの情報に触れることと、それを深く受け取ることは同じではありません。
一冊の本を読みながら、途中で通知を見る。
映画を見ながら、別の画面も見る。
分からないことに出会うと、自分でしばらく考える前に、すぐ答えを検索する。
次々と新しい情報に触れているうちに、少し前に読んだことが、自分の中にほとんど残っていないこともあります。
私たちは以前よりはるかに多くのことを知ることができるようになりました。
しかし、
知ることと、考えること。
見ることと、味わうこと。
読むことと、その内容を自分の経験に照らして受け止めること。
これらは同じではありません。
情報が増えるほど精神が豊かになるのであれば、私たちはすでに、人類史上もっとも精神的に豊かな時代を生きているはずです。
しかし、本当にそうだと言い切れるでしょうか。
人類は、豊かな文明の遺産を手にしている
ここで少し視野を広げてみましょう。
私たちは、現在生きている人たちからだけ学んでいるわけではありません。
何百年、何千年も前に生きた人が考えたことを、本を通して読むことができます。
昔の人がつくった音楽を聴くことができます。
遠い土地で生まれた絵画や彫刻を見ることができます。
古代の哲学者が考えたこと。
宗教者が問い続けてきたこと。
文学者が描いた人間の喜びや苦しみ。
科学者が明らかにしてきた自然の姿。
歴史の中で人々が繰り返してきた成功と失敗。
人類は長い時間をかけて、膨大なものを生み出し、残してきました。
それらは、一人の人間が一生の中で経験できる範囲を、はるかに超えています。
私たちは、自分が生きた数十年間の経験だけで人生を考えなくてもよいのです。
遠い時代に生きた人の経験から学ぶことができます。
自分とはまったく異なる社会で生きた人のものの見方に触れることもできます。
自分では思いつかなかった問いに出会うこともできます。
人類が積み重ねてきたこうしたものを、ここでは広い意味で文明の遺産と考えてみましょう。
現代の私たちは、その文明の遺産に、かつてないほど容易にアクセスできる時代に生きています。
文明にアクセスすることと、文明を生かすことは違う
しかし、ここにも同じ問題があります。
古典を読めることと、その古典によって自分のものの見方が変わることは同じではありません。
世界中の音楽を聴けることと、その音楽を深く味わうことも同じではありません。
美術作品を見ることと、その作品によって自分の中に何が生まれるのかを感じることも同じではありません。
哲学者の言葉を知ることと、その言葉を手がかりに自分の人生を問い直すことも違います。
たとえば、一冊の本を読んだとします。
読み終えて、その内容を知っただけで終わることもあります。
しかし、ときには一つの言葉が心に残ります。
なぜ、この言葉が自分には気になるのだろう。
これまで自分は、なぜそれとは異なる考えを当然だと思っていたのだろう。
自分が経験したあの出来事を、この考えから見るとどう見えるだろう。
そうしているうちに、それまでとは少し違った見方が生まれることがあります。
文明が人間に与えるものは、情報だけではありません。
文明には、私たちのものの見方を揺さぶり、自分自身を考え直すきっかけを与える力があります。
しかし、その力を生かすためには、文明にただ触れるだけではなく、それを自分の中で受け止める時間が必要です。
精神の豊かさとは、知識の量だけではない
それでは、人間の精神が豊かになるとは、どういうことでしょうか。
ここで最終的な定義を決める必要はありません。
ただ、少なくとも知識を多く持っていることだけではなさそうです。
一つの出来事を、別の角度からも見ることができる。
自分とは違う価値観に触れたとき、自分の考えを問い直すことができる。
経験の中から、新しい意味を見いだすことができる。
そして、自分なりの考えや表現を生み出すことができる。
そうした可能性が広がっていくことも、精神の豊かさと呼べるのではないでしょうか。
だとすれば、社会が便利になり、情報が増え、知識にアクセスしやすくなったことだけでは、精神の豊かさは保証されません。
社会の豊かさと、精神の豊かさは同じではない
社会が豊かになることで、人々は安全に暮らしやすくなります。
病気になったときに治療を受けることができます。
学ぶ機会を持つことができます。
生活上の困難を社会から支えてもらうこともできます。
こうした条件は、人がよりよく生きるうえで非常に重要です。
しかし、人間の生の豊かさは、安全に生活できることだけでは尽くせません。
私たちは、経験に意味を感じます。
何が大切なのかを考えます。
自分はどう生きたいのかを問い続けます。
世界について知ろうとします。
美しいものを味わいます。
新しいものを考え、つくり、表現します。
こうした営みまで含めて人間の生を考えるなら、社会の豊かさだけでは捉えきれない豊かさがあります。
ここに、もう一つの視点が必要になります。
それが、文明の豊かさです。
効率の先に、何を豊かにするのか
AIの発達は、この問いをさらに鮮明にしています。
これまで人間が時間をかけて行ってきた仕事の一部を、AIの力を借りて短時間で行えるようになっています。
情報を集める。
文章を整理する。
計算する。
比較する。
こうしたことを、人間だけで行う必要は少しずつ減っていくかもしれません。
そのとき問われるのは、人間自身が、さらに効率よく働くことだけを目指すのかということです。
もし一時間かかっていた仕事が三十分で終わるようになったとき、残った三十分で、さらに別の仕事をすることもできます。
しかし、一冊の本を読んだり、誰かとゆっくり話したり、自分の経験を振り返ったり、何かをつくったりすることに使うこともできます。
社会を効率化することによって生まれた余白を、人間自身の精神をさらに効率化するために使う必要はありません。
効率化の意味は、より多くのことをすることだけではないのかもしれません。
効率の先に、人間が何を豊かにしていくのか。
それを考える段階に、私たちは来ているのではないでしょうか。
社会の豊かさの先に、文明の豊かさがある
豊かな社会をつくることは大切です。
人々が貧困や病気や孤立によって苦しまないようにすること。
安心して暮らせること。
教育を受けられること。
自分の人生を選べること。
こうした社会の条件は、これからも大切にしていかなければなりません。
しかし、それだけで人間の豊かさのすべてを語ることはできません。
人類は長い時間をかけて、思想、文学、芸術、科学、宗教、歴史、技術など、膨大な文明の遺産を生み出してきました。
そこには、過去の人々が何を見て、何を感じ、何を問い、何を考えてきたのかが残されています。
その文明に触れることで、私たちは、自分一人の経験だけでは得られなかった見方に出会うことができます。
そして、その出会いによって、自分自身の精神が変わっていくことがあります。
だとすれば、豊かさを考えるときには、
人々がよりよく生活できる社会の豊かさ
だけでなく、
人間の精神を豊かにする可能性を持つ文明を、どのように生かしていくのか
という問いも必要になります。
社会の豊かさと文明の豊かさは、同じものではありません。
しかし、どちらも人間がよりよく生きることに深く関わっているのではないでしょうか。
おわりに:精神は、どこで育つのか
私たちは、豊かな社会をつくるために、多くの努力を重ねてきました。
その結果、生活は便利になり、できることは増え、多くの困難を社会の仕組みによって軽減できるようになりました。
それは、人類が生み出してきた大きな成果です。
しかし、社会が豊かになったからといって、人間の精神まで自動的に豊かになるわけではありません。
むしろ社会が豊かになった今だからこそ、
その豊かさを使って、私たちは何を豊かにしていくのか
を考える必要があるのかもしれません。
私たちは、人類が長い歴史の中で生み出してきた文明に囲まれて生きています。
過去の人々が考え、感じ、つくり、残してきたものが、今も私たちに働きかけています。
では、その文明は、どのように私たちの精神に働きかけるのでしょうか。
そして私たちの精神は、文明から何かを受け取るだけなのでしょうか。
それとも、受け取ったものを自分の中で変えながら、再び文明へ返していくのでしょうか。
次の記事では、精神と文明がどのように互いをつくっていくのかを、もう少し深く考えてみたいと思います。
附記:本記事における「文明」という言葉について
「文明」という言葉には、学問分野を越えて合意された一つの定義があるわけではなく、歴史的にもさまざまな意味で使われてきました。
文明という言葉の主な使われ方を、ここでは本記事の目的に沿って大きく三つに整理してみます。
一つ目は、都市や国家、分業などを備えた複雑な社会を指す「社会としての文明」です。
二つ目は、中国文明やイスラーム文明、西洋文明など、長い歴史を通して形成されてきた大きな文化的・歴史的世界を指す「歴史的世界としての文明」です。
そして三つ目は、人類が長い歴史の中で知識、技術、制度、思想、芸術などを生み出し、蓄積し、受け継ぎながら、新たにつくり変えてきた「人類的蓄積・生成過程としての文明」です。
本記事で「文明」あるいは「文明の遺産」と述べるときには、主として三つ目の意味で用いています。
人類が長い時間をかけて生み出してきたものを受け取り、それを味わい、自らの生に生かし、ときには新しいものを生み出しながら、次の世代へ手渡していく。
そのような大きな生成の流れとして、本記事では文明を考えています。

