人生は、コントロールするものではない ― いまできることに心を尽くす

はじめに:思い通りにならない人生の中で
私たちは、自分の人生に何が起こるかを、完全にコントロールすることはできません。
どれだけ気をつけていても、予想外の出来事は起こります。
努力しても、望んだ結果にならないことがあります。
誠実に関わっても、相手に理解されないことがあります。
健康に気を配っていても、体調を崩すことがあります。
もちろん、だからといって、何もできないわけではありません。
準備することはできます。
学ぶこともできます。
生活を整えることもできます。
人との関わり方を見直すこともできます。
自分の選択を、少しずつ変えていくこともできます。
けれども、それでもなお、人生には自分の思い通りにならない領域があります。
この事実を受け入れることは、頭では理解できても、実際には容易ではありません。
なぜなら、人は誰しも、不安を避けたいからです。
失敗を避けたい。
傷つきたくない。
大切なものを失いたくない。
できることなら、望ましくない結果を遠ざけたい。
その心は、決しておかしなものではありません。
むしろ、生きていくうえで自然な働きです。
けれども、その心が強くなりすぎると、私たちはまだ起こっていない未来に縛られてしまいます。
今回は、人生をコントロールしようとする心と、いまできることに心を尽くす生き方について考えてみたいと思います。
未来を考えることと、未来を支配しようとすること
私たちは、未来を考えながら生きています。
明日の予定を立てる。
仕事の準備をする。
健康に気をつける。
家族のことを考える。
将来のために学ぶ。
万一に備えておく。
こうしたことは、人生をよりよく生きるために大切な働きです。
未来をまったく考えず、その場その場だけで生きればよい、ということではありません。
未来を想像できるからこそ、人は危険を避け、準備をし、よりよい選択をしようとすることができます。
問題は、未来を考えることそのものではありません。
問題は、未来を「自分の力で完全に思い通りにしなければならないもの」として抱え込んでしまうことです。
うまくいくだろうか。
失敗しないだろうか。
評価を下げないだろうか。
嫌われないだろうか。
思い通りにならなかったら、どうしよう。
このように考えるとき、私たちは未来に備えているようでいて、実は未来に心を奪われています。
まだ起こっていない出来事を、心の中で何度も先取りする。
まだ失敗していないのに、失敗したあとの苦しみを想像する。
まだ評価されていないのに、悪く評価されたときの不安を抱える。
まだ失っていないのに、失う可能性に心を縛られる。
そのとき、苦しみは現実の出来事からだけ生まれているのではありません。
「自分に何が起こるかを、できるだけ思い通りにコントロールしたい」
その欲求が、心の中で未来を何度も再生し、私たちを疲れさせていくのです。
結果への執着が、今を曇らせる
結果をよくしたいと思うことは、自然なことです。
試験に合格したい。
仕事で成果を出したい。
人間関係を大切にしたい。
健康でいたい。
家族に幸せでいてほしい。
自分の努力が、よい形で実ってほしい。
そう願うこと自体は、何も悪いことではありません。
願いがあるからこそ、人は行動できます。
大切なものがあるからこそ、準備し、努力し、工夫することができます。
けれども、願いがいつのまにか「結果への執着」に変わることがあります。
うまくいかなければならない。
失敗してはいけない。
評価されなければならない。
思い通りにならなければならない。
望んだ結果を、必ず手に入れなければならない。
そうなると、私たちの心は、今ここで行うことから離れていきます。
目の前の仕事に向かっているようで、実際には評価のことばかり考えている。
相手と話しているようで、嫌われないかどうかばかり気にしている。
健康のために生活を整えているようで、病気にならない保証を求めて不安になっている。
学んでいるようで、すぐに成果が出るかどうかに心を奪われている。
このようなとき、行為そのものが曇っていきます。
本来なら、今できることに丁寧に向かえばよいはずです。
しかし、結果を思い通りにしようとする心が強くなると、行為は未来の不安に引っ張られてしまいます。
失敗したくないから、始められない。
評価が気になるから、自分の言葉で話せない。
うまくやろうとしすぎて、身体がこわばる。
結果を急ぎすぎて、途中の小さな変化を見落とす。
未来をよくしようとする心が、今を生きる力を弱めてしまうことがあるのです。
手放すとは、努力をやめることではない
ここで大切なのは、人生を投げ出すことではありません。
望みを捨てることでもありません。
努力をやめることでもありません。
責任を放棄することでもありません。
「どうなっても構わない」と自暴自棄になることでもありません。
むしろ、自分にできることには誠実に取り組む。
準備できることは準備する。
学べることは学ぶ。
整えられることは整える。
伝えるべきことは伝える。
行動すべきときには行動する。
そのうえで、結果まで自分の所有物にしようとしない。
ここに、微妙ですが大切な違いがあります。
自分にできることをすることと、結果まで完全に思い通りにしようとすることは、同じではありません。
たとえば、健康のために生活を整えることはできます。
けれども、絶対に病気にならない人生を保証することはできません。
人に誠実に関わることはできます。
けれども、相手が必ず自分を理解してくれるとは限りません。
仕事に心を尽くすことはできます。
けれども、その努力がいつ、どのように評価されるかを完全に決めることはできません。
子どもや家族を大切にすることはできます。
けれども、その人の人生を代わりに生きることはできません。
私たちにできることは、確かにあります。
しかし、私たちにはできないこともあります。
この二つを混同すると、人は苦しくなります。
できることをしないまま「仕方がない」と言えば、それは投げ出すことになります。
けれども、できないことまで背負い込んで「何とかしなければ」と思い続ければ、心は休まらなくなります。
手放すとは、できることを放棄することではありません。
できることと、できないことを見分けることです。
そして、できることには心を尽くし、できないことは無理に抱え込みすぎないことです。
いまできることに心を尽くす
では、いまできることに心を尽くすとは、どういうことでしょうか。
それは、特別なことをするという意味ではありません。
今日、整えられる生活を整える。
今、伝えられる言葉を伝える。
目の前の人の話を、少し丁寧に聴く。
今の自分にできる準備をする。
身体が疲れているなら、休む。
心が乱れているなら、少し立ち止まる。
大切だと思うことに、もう一度向き直る。
そうした一つひとつは、小さなことかもしれません。
しかし、人生はその小さな行為の積み重ねの中で形づくられていきます。
私たちは、ときに大きな結果ばかりを見てしまいます。
成功したか。
失敗したか。
評価されたか。
望み通りになったか。
けれども、人生を実際に支えているのは、その結果に至るまでの日々の行為です。
どのように働いたか。
どのように人と関わったか。
どのように身体を扱ったか。
どのように学んだか。
どのように悩み、どのように立ち直ろうとしたか。
結果だけを見ていると、その途中で生まれているものを見落としてしまいます。
結果は、もちろん大切です。
しかし、結果だけが人生ではありません。
いまできることに心を尽くすとき、私たちは結果を無視しているのではありません。
むしろ、結果をよくしたいからこそ、今という唯一働きかけられる場所に戻っているのです。
未来は、直接つかむことができません。
過去は、もう変えることができません。
けれども、今の行為は変えることができます。
今の呼吸を整えることはできます。
今の言葉を選ぶことはできます。
今の一歩を踏み出すことはできます。
人生を生きるとは、この「今」に何度も戻ってくることなのかもしれません。
恐れに押される行動、願いに導かれる行動
結果への執着が強くなると、行動は恐れに押されるようになります。
失敗したくないから動く。
責められたくないから頑張る。
不安を消したいから準備する。
評価を失いたくないから無理をする。
こうした行動は、一時的には役に立つことがあります。
危機を避けたり、責任を果たしたりするうえで、恐れが働くこともあります。
しかし、恐れだけで動き続けると、心身は少しずつ硬くなっていきます。
いつも先回りして考える。
いつも悪い結果を想定する。
いつも失敗しないように緊張する。
いつも人の評価に気を配る。
そうしているうちに、自分が本当は何を大切にしたかったのかが見えにくくなることがあります。
一方で、結果を思い通りにしようとする心から少し離れると、行動の奥にある願いが見えやすくなります。
よく見られたいからではなく、よい仕事をしたい。
失敗を避けたいからではなく、大切なことを形にしたい。
嫌われたくないからではなく、相手と誠実に関わりたい。
病気が怖いからだけではなく、この身体で自分の人生を生きていきたい。
恐れに押される行動と、願いに導かれる行動は、外から見ると似ているかもしれません。
同じように働いている。
同じように準備している。
同じように生活を整えている。
同じように人と関わっている。
けれども、内側の質は少し違います。
恐れに押されているとき、心は結果に縛られています。
願いに導かれているとき、心は行為そのものに向かっています。
そのとき、行動は少し澄んでいきます。
余計な思い煩いに曇らされず、今この瞬間にできることを行う。
それは、何も考えずに生きることではありません。
未熟なまま流されることでもありません。
むしろ、自分にできることと、できないことを見分けたうえで、できることに心を尽くす成熟した態度です。
そのような姿を、あえて言えば、純真に生きることと呼べるのかもしれません。
それは、現実を知らない無邪気さではなく、余計な恐れに曇らされず、いまの行為にまっすぐ向かう姿です。
おわりに:人生は、生きていくものとして開かれる
人生には、思い通りになることもあります。
けれども、思い通りにならないこともあります。
願った通りに進む日もあれば、予想外の出来事に揺さぶられる日もあります。
努力が報われることもあれば、すぐには形にならないこともあります。
大切にしてきたものが守られることもあれば、変化していくこともあります。
そのすべてを、私たちは完全には支配できません。
けれども、だからといって、人生は無力なものではありません。
思い通りにならない人生の中で、今の自分に何ができるかを見つめる。
結果を保証できない中で、それでも心を尽くしたいことに向かう。
不安を完全に消せなくても、不安にすべてを明け渡さず、一歩を選ぶ。
できないことまで抱え込まず、できることを丁寧に行う。
そこに、人間の自由があります。
自由とは、すべてを思い通りにできることではないのだと思います。
むしろ、思い通りにならないものがあると知ったうえで、それでも自分の行為を選び直せることです。
私たちにできることは、人生のすべてを思い通りにすることではありません。
けれども、いま目の前にある一つの行為に、心を尽くすことはできます。
今日の言葉を、少し丁寧に選ぶことはできます。
今日の身体を、少し大切に扱うことはできます。
今日出会う人に、少し誠実に向き合うことはできます。
今日の一歩を、自分の願いに近いほうへ向けることはできます。
そのようにして、結果を思い通りにしようとする心から少し離れ、いまできることに心を尽くすとき、人生は「管理すべきもの」ではなく、「生きていくもの」として、少しずつ開かれていくのだと思います。

