遊びは、Lifeを閉じない ― Life三層モデルから考える創造の余白

はじめに:遊んでいる時間に、罪悪感を覚えることがある
遊んでいる時間に、どこか罪悪感を覚えることがあります。
仕事をしているわけではない。
学んでいるわけでもない。
誰かの役に立っているわけでもない。
何かを生み出しているわけでもない。
ただ散歩をしている。
ただ好きな作品を見ている。
ただ音楽を聴いている。
ただぼんやりしている。
ただ面白いと思うことをしている。
それなのに、心のどこかで、
「もっと意味のあることをした方がよかったのではないか」
「この時間を学びに使えたのではないか」
「仕事に役立つことをした方がよかったのではないか」
「無駄に過ごしてしまったのではないか」
と感じてしまう。
このような感覚は、責任感の強い人ほど起こりやすいかもしれません。
家族のために、仕事のために、周囲のために、自分なりに役割を果たしている人。
学びや成長を大切にしている人。
人の役に立つことに生きがいを感じている人。
自分の時間を、できるだけ意味あるものにしたいと思っている人。
そういう人ほど、遊びの時間を軽く見てしまうことがあります。
遊びは、余った時間にするもの。
遊びは、少し贅沢なもの。
遊びは、役に立たないもの。
遊びは、仕事や成長に比べれば、優先順位の低いもの。
けれども、遊びとは、本当に単なる余暇なのでしょうか。
気晴らしや娯楽にすぎないのでしょうか。
人間が生きるうえで、遊びは周辺的なものなのでしょうか。
そうではありません。
遊びは、人生の周辺に残った余りの時間ではありません。
それは、Lifeが役割や成果だけに閉じず、まだ決まっていない可能性へ開かれているための余白です。
前回の記事では、役割が軽くなる時代に、私たちは何をもって人生を生きるのかを考えました。
役割は、生活を支える大切なものです。
しかし、役割に追われない時間が生まれたとき、その余白まで、すぐに成果や意味で埋めようとすると、そこにもまた別の苦しさが生まれます。
では、その余白を、どのように受け取ればよいのでしょうか。
その手がかりになるのが、遊びです。
今回は、Life三層モデルを手がかりに、遊びについて考えてみたいと思います。
遊びは、無駄な時間なのか
人は、時間を「何に役立つか」で考えることがあります。
仕事をする時間。
学ぶ時間。
成長する時間。
健康のために運動する時間。
人のために動く時間。
将来のために準備する時間。
これらは、どれも大切な時間です。
人は働きながら生活を支えます。
学ぶことで視野が広がります。
身体を整えることも、人との関係を育てることも大切です。
けれども、価値ある時間を「何かに役立つ時間」だけだと考えるようになると、私たちは次第に、あらゆる時間を有用性によって測るようになります。
この時間は、仕事に役立つか。
この経験は、学びになるか。
この活動は、成長につながるか。
この休息は、明日の生産性を高めるか。
この趣味には、どんな意味があるか。
もちろん、そのように考えることが悪いわけではありません。
遊びや趣味から仕事のヒントが生まれることもあります。
一見無駄に見えた経験が、後になって大切な意味を持つこともあります。
しかし、すべての時間を成果や意味に変換しようとすると、人生から余白が失われていきます。
ただ楽しかった。
ただ気持ちよかった。
ただ面白かった。
ただ心がゆるんだ。
ただぼんやりできた。
そのような時間を、そのまま受け取れなくなるのです。
遊びは、仕事や学びの反対ではありません。
また、何の目的も持ってはいけない時間でもありません。
ゲームなら勝ちたいと思うことがあります。
スポーツなら上手になりたいと思うことがあります。
何かを作ることそのものを楽しむこともあります。
遊びの特徴は、目的がないことではありません。
その価値が、外から与えられた成果や有用性だけでは測りきれないことです。
ただ面白いからやってみる。
ただ心が動くから続けてみる。
そこには、「何の役に立つのか」という問いだけでは捉えきれない時間があります。
遊びとは、Lifeが有用性だけに閉じないための余白なのです。
人は、維持するだけでなく、新しい関わりを生み出す
身体には、自分を維持しようとする働きがあります。
食べる。
眠る。
呼吸する。
身を守る。
疲れたら休む。
傷つけば回復しようとする。
私たちは、こうした身体の働きに支えられながら生きています。
しかし、人はただ同じ状態を維持しているだけではありません。
環境に触れ、誰かと出会い、何かを試し、思いがけないことに心を動かされながら、少しずつ変化しています。
子どもの遊びを見ると、それがよく分かります。
触れる。
走る。
真似をする。
作る。
壊す。
また作る。
同じことを何度も繰り返す。
大人の目から見ると、何のためにしているのか分からないこともあります。
けれども、その中で身体の使い方を知り、人との距離を学び、物の性質に気づき、新しいやり方を試しています。
子どもは、「学ぶために遊ぼう」と考えているわけではありません。
遊んでいるのです。
結果として、学びや成長が生まれます。
ここには、遊びについて大切なことがあります。
すべてが最初から目的に向かって決められていると、予定どおりに遂行することはできます。
しかし、新しいことは、ときに予定から少し外れたところから生まれます。
試してみる。
失敗する。
寄り道する。
偶然に出会う。
まだ意味の分からないものに触れる。
そのような余白の中で、思いがけない感覚や関係、発想が生まれることがあります。
遊びとは、そうした可能性に開かれた時間でもあります。
遊びとは、Lifeに開かれた余白である
ここで、遊びを次のように考えてみたいと思います。
遊びとは、必要や役割や成果だけに回収されず、まだ決まっていない可能性を試すことのできる余白です。
人には、生きるための必要があります。
食べる。
眠る。
安全を保つ。
身体を回復させる。
社会の中には、役割があります。
家族の中で担うこと。
仕事で求められること。
人との関係の中で引き受ける責任。
そして人生には、
何を大切にしたいのか。
どのように生きたいのか。
この生を、自分の人生としてどう受け取るのか。
という問いがあります。
必要も、役割も、人生の意味も大切です。
しかし、
必要なことをしなければならない。
役割を果たさなければならない。
意味のあることをしなければならない。
成長しなければならない。
役に立たなければならない。
という状態が続くと、Lifeは次第に硬くなります。
遊びの中では、少し違う時間が流れます。
上手でなくてもよい。
役に立たなくてもよい。
意味を説明できなくてもよい。
成果を残さなくてもよい。
ただ、やってみる。
ただ、味わう。
ただ、面白がる。
ただ、世界に触れる。
このような時間があることで、私たちは目的や役割だけに閉じずにいられます。
そして、そこから思いがけない変化が生まれることもあります。
大切なのは、その変化を起こすために遊ぶのではない、ということです。
遊びは、変化や成長を生み出すための手段ではありません。
何かに役立つかどうかが、あらかじめ決められていないところに、遊びの余白があります。
Life三層モデルから遊びを見る
Life三層モデルでは、一人の人間の生(Life)を、生存・生活・人生という三つの営みから捉えます。
しかし、この三つは、別々の世界ではありません。
遊びについても同じです。
遊びを、生存の遊び、生活の遊び、人生の遊びという三種類に分ける必要はありません。
一つの遊びの中に、生存・生活・人生という三つの営みが重なって現れることがあります。
たとえば、目的もなく散歩をするとします。
歩きながら、風を感じる。
身体が少しゆるむ。
呼吸の変化に気づく。
環境と触れながら、自分の身体が生きていることを取り戻していく。
そこには、生存の側面があります。
仕事や家庭のことから少し離れ、「今は何かを果たさなくてもよい」という時間になることがあります。
そこには、役割から少し離れ、生活の緊張がゆるむ営みがあります。
そして、何かを考えようとしていたわけではないのに、ふと心が動いたり、今まで気づかなかったことが浮かんだりすることがあります。
すぐには意味にならない感覚を、そのまま持ち帰ることもあります。
そこには、この生を自分の人生として受け取り直していく営みがあります。
同じ一つの遊びの中で、生存・生活・人生は重なっています。
身体にとっては、成果を出すためだけに動くのではなく、ただ世界に触れる時間になる。
生活にとっては、役割を果たすことだけに追われない余白になる。
人生にとっては、経験をすぐには意味や成長へ回収しない時間になる。
遊びは、この三つを分けるものではありません。
むしろ、一つの遊びの中で、生存・生活・人生がゆるやかに重なり直し、一人のLifeとして流れ始めることがあります。
すぐに意味へ回収しない
私たちは、自分の経験に意味を与えながら生きています。
病気をどう受け止めるのか。
失敗から何を学ぶのか。
仕事に何を大切にして取り組むのか。
これからどのように生きたいのか。
経験を意味づける力は、人間にとって大切です。
しかし、すべての経験を、その場ですぐに意味へ変換する必要はありません。
この時間には、どんな意味があったのか。
何を学べたのか。
成長にどうつながったのか。
仕事にどう活かせるのか。
そう問い続けると、遊びまで人生の課題になってしまいます。
遊びには、まだ意味になっていないものを、そのまま生かしておく余白があります。
ただ面白かった。
それで終わってもよい。
ただ心が動いた。
その理由が分からなくてもよい。
ただ何となく好きだった。
すぐに説明できなくてもよい。
あとになって意味が生まれることもあります。
何も意味にならないまま終わることもあります。
どちらでもよいのです。
意味を生成する力を大切にすることと、すべてをすぐに意味づけないことは、矛盾しません。
むしろ、まだ意味の定まらない時間があるからこそ、人生は一つの物語に固定されず、新しい見方へ開かれていくことがあります。
「無用の用」から遊びを考える
遊びを考えるとき、老荘思想の「無用の用」という考え方を思い出します。
一見すると役に立たないように見えるものの中にも、それだからこそ果たせる働きがある。
有用性だけで価値を測ると、大切なものを見失うことがある。
遊びも、これとよく似ています。
すぐには役に立たないかもしれない。
何かを生産するわけでもない。
成果として説明しにくい。
しかし、だからこそ、遊びは私たちを、「何の役に立つのか」という尺度から一時的に自由にしてくれます。
ここで大切なのは、遊びに隠された「本当の効用」を探すことではありません。
「遊びにも実はこんな効果がある」と説明してしまえば、再び有用性の尺度に戻ってしまいます。
遊びを大切にするとは、役に立たなくても、その時間を生きてよいという余地をLifeの中に残すことでもあります。
老荘的な自由を、社会的な責任から逃げることと考える必要はありません。
役割を果たしながらも、すべてを作為や成果で埋め尽くさない。
その余白を残すことです。
遊びは、その余白をLifeの中に取り戻す一つの営みなのです。
遊びを成長の手段にしすぎない
遊びは、結果として学びや成長につながることがあります。
散歩しているうちに、考えが整理されることがあります。
好きな作品に触れて、新しい視点が生まれることがあります。
趣味の時間から、仕事の発想が浮かぶこともあります。
何気ない会話が、その後の人生に残ることもあります。
しかし、だからといって、最初から遊びを成長や仕事の手段にしすぎると、遊びは再び役割へ近づいていきます。
創造性を高めるために遊ぶ。
仕事に活かすために趣味を持つ。
学びを深めるために遊ぶ。
パフォーマンスを上げるために休む。
それも悪いことではありません。
しかし、それだけになると、
何を学べたか。
何に活かせるか。
どんな意味があったか。
どれだけ回復できたか。
と、遊びまで評価するようになります。
休息を遂行する。
趣味を遂行する。
遊びさえ上手に遂行する。
そうなると、Lifeはまた硬くなります。
遊びを大切にするとは、遊びを有用性で正当化することではありません。
学ばなくてもよい。
成長しなくてもよい。
役に立たなくてもよい。
意味を説明できなくてもよい。
そういう時間があってよい、と認めることです。
遊びは、役に立つから大切なのではありません。
役に立つかどうかという尺度だけでは測られない時間を、生きることができるから大切なのです。
おわりに:遊びは、Lifeが閉じないための余白である
遊びは、人生の周辺にある余った時間ではありません。
それは、Lifeが必要・役割・成果・意味だけに閉じないための余白です。
遊びの中では、生存が、身体を目的のためだけに使うことから少し自由になります。
生活が、役割を果たすことだけに追われない余白を取り戻します。
人生が、経験をすぐに意味や成長へ変換せず、まだ意味にならないものをそのまま持っていられるようになります。
一つの遊びの中で、生存・生活・人生は重なり、一人のLifeとして流れています。
ただ歩く。
ただ味わう。
ただ笑う。
ただ面白がる。
ただ何かに触れる。
そのような時間も、一人のLifeを生きる時間です。
そして、何かの役に立つことを目的としていなかった時間の中から、思いがけない気づきや関係、新しい可能性が生まれることがあります。
けれども、それを生み出すために遊ぶ必要はありません。
何も生まれなくてもよい。
ただ楽しかっただけでもよい。
そこに、遊びの自由があります。
遊びとは、何かを成し遂げるためにLifeから切り出された時間ではなく、Lifeがまだ決められていない方向へ開かれているための余白です。
だから、遊びは無駄ではありません。
そして、役に立つことを証明しなければ価値のない時間でもありません。
遊びは、Lifeが役割や成果だけに閉じず、まだ決まっていない可能性へ開かれているための余白なのです。
次回への問い
この記事では、遊びを、Lifeが必要や役割、成果や意味だけに閉じないための余白として考えてきました。
遊びは、役に立つから大切なのではありません。
役に立つかどうかという尺度から一時的に離れ、まだ決まっていない経験を、そのまま生きることができるから大切です。
では、その余白の中で、私たちは何を感じ取っているのでしょうか。
言葉で考え、意味づけるより前に、身体や感覚を通して、すでに受け取っているものがあるとすれば、それは何なのでしょうか。
→ 次回、「私たちは、考えるより先に感じている」へ。


