自由になっても、満たされない時代 ― Life三層モデルから考える近代個人主義の限界

はじめに:自由になったはずなのに、なぜ満たされないのか

現代の私たちは、かつてよりも多くの自由を手にしているように見えます。

職業を選ぶ自由。
住む場所を選ぶ自由。
誰と関わるかを選ぶ自由。
家や地域や伝統から、ある程度距離を取る自由。
自分らしい生き方を考える自由。

もちろん、すべての人が同じように自由であるわけではありません。

経済的な制約もあり、家族の事情もあり、身体の状態や社会的な立場によって、選べる範囲は大きく異なります。

それでも、少なくとも近代以降の社会は、与えられた役割に従うだけではなく、一人ひとりが「自分の人生」を問い、選ぶことを重視する方向へ進んできました。

ところが、選択の自由があっても、それだけで満たされるとは限りません。

仕事をしている。
家族を支えている。
責任を果たしている。
人に迷惑をかけないようにしている。
求められる役割に、できるだけ応えようとしている。

周囲から見れば、きちんと生きているように見えるかもしれません。

けれども、ふとした瞬間に、こう感じる人もいます。

「これは、本当に自分の人生なのだろうか」
「期待に応えることばかりで、自分が何を大切にしたいのかわからない」
「役割は果たしているのに、どこか満たされない」
「自分らしく生きたいけれど、役割を投げ出すわけにもいかない」

本稿でいう「満たされない」とは、現代人全体の幸福度について述べるものではありません。
選択の自由や社会的な役割がありながら、自分が何を大切にして生きているのかわからないという、人生上の空虚感を指しています。

もちろん、この空虚感を近代個人主義だけで説明することはできません。
経済的な不安、孤立、過重な労働、家族のケアなど、生活の条件も深く関わっています。

この記事では、そのすべてを論じるのではなく、選択の自由が広がっても、生きる目的や意味が自動的に与えられるわけではない、という問題に焦点を当てます。

本稿では「近代個人主義」という言葉を、特定の一つの思想学説に限定せず、身分や共同体から個人を解放し、一人ひとりの自由・自律・自己決定・自分らしさを重視してきた、近代以降の広い社会的・思想的傾向を指す言葉として用います。

Life三層モデルを手がかりに、近代個人主義が開いた自由の意義と、その先に残された課題について考えてみたいと思います。

人は、役割の中で生活してきた

近代以前にも、人は身体を生き、社会の中で役割を担い、人生の意味を問うていました。

喜びも、苦しみも、信仰も、誇りもありました。
与えられた状況の中で、自分はどう生きるのかを問い、主体的に決断した人もいたでしょう。

ただ、現代に比べれば、家、地域、宗教、身分、職分などが、生き方の選択と意味づけをより強く方向づけていました。

農民として生きる。
職人として生きる。
商人として生きる。
父として、母として、子として生きる。
地域や家の一員として生きる。

人は、自分の人生を何もないところから自由に設計するというより、与えられた場所と関係の中で、いかに生きるかを考えていました。

役割は、単なる外側の肩書きではありませんでした。
生活を支え、社会の中での居場所を与え、人生の意味にもつながっていました。

一方で、その秩序は、身分や性別によって選択肢を狭め、家や共同体の価値観に従うことを求めるものでもありました。
居場所を与えると同時に、そこから外れる人を排除することもありました。

したがって、近代以前を、誰もが役割の中で安定して生きられた時代として美化することはできません。

役割が生活と意味を支えることと、役割が個人の自由を制限すること。
その両方が存在していたのです。

近代は、「自分の人生」を問う自由を開いた

近代以降、人は次第に、与えられた身分や役割から距離を取れるようになりました。

生まれた家や身分だけで人生を決められたくない。
社会の期待に従うだけでなく、自分の考えで生きたい。
親や共同体や伝統が決めた人生ではなく、自分の人生を生きたい。

こうして、個人の権利、自由、自立、自己決定が重視されるようになりました。

これは、人間にとって大きな解放でした。

一人ひとりが、自分の人生を問い、選び、意味づけてよい。
何を大切にし、どのように生きたいのかを考えてよい。
不当な役割や、本人の意思を抑圧する関係から離れてよい。

この変化の意義は、十分に認める必要があります。

一方で、選択の自由が広がることによって、それまで共同体や伝統が与えていた生き方の基準を、自分で引き受けなければならない場面も増えました。

何を選ぶのか。
なぜそれを選ぶのか。
その選択によって、どのような人生を生きるのか。

選択肢が増えても、その答えまで与えられるわけではありません。
そこに、近代以前とは異なる迷いや負担が生じることがあります。

自由になったことが苦しみを生むのではありません。
自由が、生きる目的や意味まで自動的に決めてくれるわけではないのです。

役割を脱げば、本当の自分になれるのか

役割を問い直すことには、大切な意味があります。

人は、役割に同一化しすぎることがあるからです。

「医療者だから、こうあるべき」
「親だから、こうしなければならない」
「支援者だから、弱音を吐いてはいけない」
「責任ある立場だから、休んではいけない」
「期待に応えなければならない」

このような思いが強くなりすぎると、疲労や眠気、身体の重さ、緊張などの変化に気づきにくくなります。

本当は疲れている。
本当は休みたい。
本当は迷っている。
今とは別の生き方を考えたい。

それでも、役割を果たすことを優先し続けてしまう。

その意味では、役割との関係を問い直すことが必要です。

しかし、役割を脱げば、その奥から固定された「本当の自分」が現れるのでしょうか。

おそらく、そう単純ではありません。

人は、社会的な役割から完全に離れて生きることはできません。

身体を養わなければならない。
日々の生活を維持するための仕事や営みがある。
家族や周囲の人との関係がある。
人との関係から完全に切り離されて生きることは難しい。

どれほど自分らしく生きたいと願っても、目の前には、収入、仕事、家族、責任、時間、身体の状態、人間関係があります。

人生において大切にしたい価値だけで生きられるわけではありません。
身体的な条件を引き受け、社会の中で生活を営みながら、その価値を具体的な選択へつなげていく必要があります。

役割を離れる自由は大切です。
しかし、役割から離れることと、本来的に生きることは同じではありません。

本来的自己とは、固定された「本当の自分」ではない

ここで、Life三層モデルの視点が役に立ちます。

Life三層モデルでは、一人の人間の生(Life)を、生存・生活・人生という三つの営みから捉えます。

そして、それぞれの営みに現れる一人の自己の側面を、生物的自己・役割的自己・本来的自己と呼びます。

本来的自己とは、役割の奥に隠されている「本当の自分」ではありません。

身体的な条件や、社会の中で担っている役割を引き受けながら、それだけに閉じることなく、自分は何を大切にし、どのように生きるのかを問い、選び直していく一人の自己の側面です。

したがって、本来的に生きることは、欲望のままに生きることでも、社会的に成功することでも、内面の静けさだけを守ることでもありません。

「私は何を大切にして、この役割を担っているのか」
「この生活は、身体の健康を損なうものになっていないか」
「この働き方は、自分が大切にしたい生き方とつながっているか」
「何を引き受け、何を委ね、何から離れる必要があるのか」

そのように問いながら、役割との関係を選び直していくことです。

自由の行き先を見失ったときに、起こりうること

役割から自由になりたい。
けれども、自分が何を大切にしたいのかは、すぐにはわからない。

そのようなとき、私たちはいくつかの方向へ傾くことがあります。

以下は、近代個人主義から必然的に生じる四つの類型ではありません。
自由を何に向けて生かすのかが見えにくくなったときに、現代社会の中で現れうる方向です。

一つは、刺激や消費によって空白を埋めようとする方向です。

休息や娯楽、心地よさを求めることは、人間にとって自然なことです。
それらは身体を休め、生活を豊かにすることもあります。

ただし、それだけでは埋まらない空虚感まで、刺激や消費によって繰り返し満たそうとすると、満足が持続しにくくなることがあります。

二つ目は、もう一度、役割や秩序に確かな答えを求める方向です。

人は、完全に孤立した個人として生きることはできません。
受け継いだ言葉、文化、関係、役割の中で、自己を形づくっています。
家族や共同体、伝統を大切にすることには、意味があります。

一方で、あらかじめ決められた役割へ戻ることで、自分の問いを抑え込んでしまえば、再び役割の中で苦しくなる可能性があります。

三つ目は、自己実現が、他者から評価される成功へ偏っていく方向です。

「自分らしく生きる」「好きなことで生きる」「使命を仕事にする」という願いは、それ自体が悪いものではありません。
社会的な評価や成功を得ることも、本来的な生き方と矛盾するとは限りません。

ただし、自分らしさや使命を掲げながら、その選択が他者からの評価や市場の基準に強く左右されていることもあります。

大切なのは、成功を否定することではなく、自分は何を基準にその成功を求めているのかを問い直すことです。

四つ目は、静かな生活や精神的な実践に救いを求める方向です。

無心、無我、今ここ、簡素な暮らし、執着を手放す生き方。
そうした方向に惹かれることには、大切な意味があります。
「本当の自分を実現しなければならない」という思い自体が、新しい負担になることもあるからです。

精神的な実践によって静けさを得ることには、それ自体に価値があります。

一方で、現実の負荷や関係上の問題が残っている場合には、内面を整えることと、生活や役割の条件を見直すことの両方が必要になることがあります。

快を求めることも、役割や伝統を大切にすることも、社会的な成功を目指すことも、静けさを求めることも、それ自体が間違いなのではありません。

問題は、どれか一つだけが、空白を埋める唯一の答えになってしまうことです。

本来的に生きるとは、役割との関係を選び直すことである

本来的に生きることは、すべての役割を否定することではありません。

役割は、いつも本当の自分を隠す仮面なのではありません。

人は、医療者、親、支援者、経営者、地域の一員、友人などの役割を担う中で、自分が大切にしたい価値を、具体的な行為として表すことができます。

医療者として、相手の苦しみを丁寧に受け止める。
親として、子どもを一人の人間として尊重する。
支援者として、相手の主体性を信じて関わる。
友人として、相手の言葉に耳を傾ける。

価値は、内面にあるだけではなく、役割や関係の中で実践されます。

しかし、役割の担い方が一つに固定されると、身体の状態や生活の変化に合わなくなることがあります。

そのとき必要なのは、役割を守るか捨てるかという二者択一だけではありません。

どこまでを自分の責任とするのかを見直す。
人に委ね、相談する。
複数の役割の優先順位を変える。
同じ役割でも、果たし方を変える。
一時的に距離を取る。
必要であれば、特定の役割から離れる。

これらも、役割との関係を選び直すことに含まれます。

本来的に生きるとは、役割の内側に隠された本当の自分を表現することではありません。
身体の状態や現実の責任、他者との関係を引き受けながら、自分が何を大切にしたいのかを問い、役割の担い方を選び直していくことです。

本来的に生きることも、身体から切り離せない

自分らしく生きたい。
意味のある人生を送りたい。
誰かを支えたい。
誠実に働きたい。

そう願うときほど、身体を後回しにしてしまうことがあります。

しかし、強い疲労が続けば、複数の選択肢を検討する余力を持ちにくくなることがあります。
睡眠不足は、判断や感情の調整に影響することがあります。
緊張が続けば、相手に落ち着いて関わる余裕を失うこともあります。

食べること。
眠ること。
休むこと。
快を感じること。
安心できる時間を持つこと。
身体に現れている変化を確かめること。

これらは、人生の問いから離れた低い営みではありません。
自分が大切にしたい生き方を、現実の中で続けていくために欠かせないものです。

Life三層モデルでは、生物的自己・役割的自己・本来的自己を切り離して考えません。

一人の人間の生(Life)は、生存・生活・人生という三つの営みとして現れています。

身体・社会・精神は、それぞれの層に固定して割り当てられるものではなく、人間の生全体に関わっています。

本来的に生きるとは、身体を無視して精神だけを高めることではありません。
生活を捨てて自分探しをすることでもありません。

身体の状態を確かめ、生活の条件を整え、役割との関係を問い直し、人生において大切にしたいことを、現実に生きられる形へつないでいくことです。

自由には、二つの側面がある

近代個人主義は、人が何かから自由になる道を開きました。

不当な抑圧から自由になる。
固定された身分や役割から自由になる。
他人の期待だけに支配されず、自分で選べるようになる。

これは、今も守らなければならない大切な自由です。

一方で、自由には、何かへ向かう側面もあります。

自分が大切にしたいものへ向かう自由。
意味のある責任を引き受ける自由。
関係を育てる自由。
役割の担い方を選び直す自由。

外からの制約が減り、選択肢が増えても、それだけで自分が何を大切にし、何に向かって生きるのかが決まるわけではありません。

ここに、自由を自己解放としてだけ捉えることの限界があります。

何から自由になりたいのか。
その自由を、何のために使いたいのか。
その選択は、身体の状態や生活の現実、他者との関係の中で持続できるものなのか。

自由とは、何にも縛られない状態だけを意味するのではありません。
条件や関係の中にありながらも、ただ一つの生き方に閉じず、問い、選び直せる余地を持つことでもあります。

おわりに:自己解放から、自己再編へ

近代が開いた大きな可能性の一つは、自己解放でした。

与えられた役割から距離を取る。
社会の期待だけで生きるのをやめる。
自分の人生を、自分で問い始める。

これは、人間にとって必要な歴史的過程でした。

しかし、自己解放だけでは、自由になったあとに何を大切にし、どのように生きるのかまでは決まりません。

役割から離れても、身体と生活は残ります。
選択肢が増えても、意味が自動的に見つかるわけではありません。
本当の自分を探しても、固定された答えがどこかに隠されているわけではありません。

そこで必要になるのが、自己再編です。

自己再編とは、生存・生活・人生のどれか一つを中心にすることではありません。

身体の状態を確かめる。
生活の条件や、担っている役割を見直す。
人生において何を大切にしたいのかを問い直す。
それらの関係を、現実に生きられる形へ組み直していく。

その全体的な過程が、自己再編です。

身体を、役割を果たすための道具として扱わない。
役割を、本当の自分を隠す仮面としてだけ捉えない。
人生の意味を、身体や生活から切り離された内面の問題にしない。

生存・生活・人生の関係を見直しながら、その時の自分が現実に生きられる形を探していくことが必要です。

近代個人主義の限界は、近代個人主義を否定する理由ではありません。

近代が開いた自由と自律の意義を受け継ぎながら、自由になったあとを、どう生きるのかを考える入口です。

自己解放から、自己再編へ。
役割の否定から、役割との関係の再編へ。
自由の主張から、意味のある自由の実践へ。

自由を本当に生きるとは、何にも縛られないことではありません。

身体的な条件や社会的な関係の中にありながら、自分が何を大切にしたいのかを問い、必要に応じて選び直していくことなのだと思います。

次回への問い

この記事では、近代個人主義が開いた自己解放の意義と、自由を自己解放としてだけ捉えることの限界について考えてきました。

役割から自由になることは大切です。
けれども、自由になっただけでは、人は必ずしも満たされません。

必要なのは、役割をすべて捨てることではなく、生存・生活・人生の関係を見直しながら、自己を再編していくことです。

では、その再編される自己とは、そもそも何なのでしょうか。

私たちが「本当の自分」と呼びたくなるものは、どこかに固定された実体なのでしょうか。

それとも、身体・社会・世界との関係の中で、変化しながら生成していくものなのでしょうか。

→ 次回、「私たちは、固定された自分ではない」へ。

 

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