苦しみは、現実そのものではない ― ありのままに見ることから始まる変化

はじめに:私たちは、苦しい現実を変えたいと思っている

私たちは、現実を変えたいと思っています。

いま直面している苦しみを、何とかしたい。
その苦しみから抜け出したい。
少しでも楽になりたい。

だから、その苦しみの原因を探し、それを取り除こうとします。

あの人が変われば。
環境が変われば。
状況が変われば。
身体が変われば。
制度が変われば。
過去が変えられれば。

そう考えて、私たちは現実を変えようとします。

もちろん、現実に働きかけることは必要です。
苦しい状況を放置してよいわけではありません。

環境を整えること。
人との関係を見直すこと。
生活を変えること。
休むこと。
治療を受けること。
誰かに相談すること。

それらは、苦しみの中にいる人にとって大切な実践です。

現実の中には、変えるべきものがあります。
自分を守るために距離を取らなければならないこともあります。
助けを求めなければならないこともあります。

けれども、そこには一つ、見落としやすいことがあります。

私たちは、現実を変えたいとは思います。
けれども、その現実を見ている「自分の見方」を見直そうとは、あまり思いません。

苦しみの原因は、自分の外側にある。
自分は、その現実に苦しめられている。
だから、変わるべきなのは現実のほうであって、自分の見方ではない。

そう考えやすいのです。

しかし、もしも私たちが苦しんでいる「現実」が、現実そのものだけではなく、現実に対する自分の見方によっても形づくられているのだとしたら、どうでしょうか。

現実そのものが苦しみなのではなく、
その現実をどう受け取り、
どう意味づけ、
どう自分の物語の中に位置づけているかによって、
苦しみが強まっているのだとしたら。

私たちは、外側の現実だけでなく、現実に対する自分の見方にも目を向ける必要があります。

苦しみを、現実そのものだと思いやすい

苦しんでいるとき、私たちは苦しみを現実そのものだと感じます。

この出来事が苦しい。
この人が苦しい。
この環境が苦しい。
この身体の状態が苦しい。
この人生の状況が苦しい。

そのように感じることは自然です。

実際、現実の中には苦しみを生むものがあります。
病気、喪失、孤立、過剰な責任、不安定な生活、人間関係の緊張。
それらは、決して軽く扱うことのできない現実です。

ですから、ここで言いたいのは、苦しみは思い込みだ、ということではありません。

苦しいと感じるのは、あなたの見方が間違っているからだ。
考え方を変えれば、苦しみは消える。
現実を変えなくても、受け取り方だけ変えればよい。

そういう話ではありません。

現実の重さを軽く扱うために、この問いを立てているのではありません。

苦しみは、たしかに苦しみとして経験されます。
痛みも、不安も、悲しみも、怒りも、喪失感も、現実の体験としてあります。

ただ、その現実の体験に、私たちはさまざまなものを重ねています。

過去の経験。
恐れ。
願い。
価値観。
人から言われてきた言葉。
自分はこうあるべきだという思い。

そうしたものが重なり、現実は一つの意味を帯びていきます。

その意味づけを通して、私たちは現実を「苦しみ」として経験しているのかもしれません。

痛みと苦しみは、同じではない

ここで、痛みと苦しみを少し分けて考えてみたいと思います。

痛みはあります。
身体の痛みもあります。
心の痛みもあります。
大切なものを失った痛みもあります。
思い通りにならなかった痛みもあります。
誰かに傷つけられた痛みもあります。

それは、なかったことにしてよいものではありません。
簡単に消せばよいものでもありません。

けれども、痛みがあることと、その痛みによって自分の人生全体が覆われてしまうことは、同じではありません。

たとえば、失敗したとします。

失敗そのものには、痛みがあります。
悔しさもあるでしょう。
恥ずかしさもあるかもしれません。
迷惑をかけたという申し訳なさもあるかもしれません。

しかし、その失敗を、

「自分はだめな人間だ」
「もう取り返しがつかない」
「これで終わりだ」
「人から見放されるに違いない」

という意味で固定したとき、痛みはさらに深い苦しみになります。

喪失も同じです。

大切なものを失えば、悲しみがあります。
寂しさもあります。
空白もあります。

けれども、その喪失を、

「自分にはもう何も残っていない」
「これから先に意味はない」
「この悲しみから抜け出すことはできない」

という物語の中に置くとき、悲しみは人生全体を閉じ込める苦しみになります。

痛みは、避けがたい体験としてある。
けれども苦しみは、その痛みにどう巻き込まれ、どう意味づけ、どう自分の物語に置いているかによって深まっていく。

この区別は、痛みを軽く見るためのものではありません。
痛みに飲み込まれ、自分の人生全体を一つの意味で閉じてしまわないために必要な区別です。

痛みを否定するのではありません。
痛みの上に、自分がどのような意味を重ねているのかを見るのです。

現実と苦しみのあいだには、反応と意味づけがある

同じ出来事でも、人によって受け取り方が違うことがあります。

ある人にとって失敗は、自分の価値を失う出来事になります。
別の人にとっては、やり方を見直す入口になります。

ある人にとって批判は、自分を否定された経験になります。
別の人にとっては、自分では見えていなかった点に気づく機会になります。

ある人にとって予定が崩れることは、大きな不安になります。
別の人にとっては、流れを組み直すきっかけになります。

これは、どちらが正しいという話ではありません。

ただ、出来事そのものと、その出来事に対する反応は同じではない、ということです。

私たちは、出来事をそのまま見ているようでいて、実際にはいろいろなものを通して見ています。

これまでの経験。
育ってきた環境。
自分が大切にしている価値。
恐れていること。
失いたくないもの。
守りたいもの。
自分はこうあるべきだという思い。

それらが、現実の見え方を形づくっています。

だから、苦しみを理解するときには、外側の現実だけを見ても十分ではありません。

この出来事に対して、自分は何に反応しているのか。
何を失うことを恐れているのか。
何を守ろうとしているのか。
どのような意味を、すでに貼りつけているのか。
この出来事を、自分の人生のどの物語の中に置いているのか。

そこに目を向ける必要があります。

苦しみは、現実そのものと、自分の見方とのあいだに生じるひずみのようなものかもしれません。

現実に何も問題がない、ということではありません。
自分の見方だけが問題だ、ということでもありません。

現実と自分の見方がぶつかるところに、苦しみが生まれることがあるのです。

ありのままに見るとは、反応を消すことではない

では、ありのままに見るとは、どういうことでしょうか。

それは、何も感じないことではありません。
怒らないことでもありません。
悲しまないことでもありません。
不安をなくすことでもありません。

苦しい出来事に出会ったとき、心が反応するのは自然です。

怒りが出ることもあります。
不安になることもあります。
悲しくなることもあります。
落ち込むこともあります。
混乱することもあります。

ありのままに見るとは、それらの反応を消すことではありません。

いま起きている出来事と、
それに反応している自分と、
その反応に自分が加えている意味を、
少し分けて見てみることです。

いま、自分は怒っている。
その怒りの奥には、何があるのだろうか。

いま、自分は不安になっている。
その不安は、何を失うことへの恐れなのだろうか。

いま、自分は悲しんでいる。
その悲しみは、何と深く結びついていたことを知らせているのだろうか。

いま、自分は傷ついている。
その傷つきは、自分が何を大切にしていたことを示しているのだろうか。

このように見るとき、私たちは反応に飲み込まれるだけではなくなります。

感情を抑え込むのではありません。
感情に支配されるのでもありません。
感情を、自分の内側で何が起きているのかを知らせる入口として見るのです。

「これは失敗だ」と決める前に、何が起きたのかを見る。
「自分はだめだ」と結論づける前に、何に傷ついたのかを見る。
「もう終わりだ」と閉じる前に、何がまだ残っているのかを見る。
「相手が悪い」と固める前に、自分は何を守りたかったのかを見る。

そのように見直すとき、現実は少しずつ別の輪郭を持ち始めます。

見方が固定されると、現実は一つの意味に閉じ込められる

苦しみが強くなるとき、私たちは現実を一つの意味に固定してしまうことがあります。

失敗は、終わり。
喪失は、空白。
不安は、危険。
怒りは、相手のせい。
停滞は、遅れ。
弱さは、価値のなさ。
助けを求めることは、迷惑。
休むことは、怠け。

このように意味が固定されると、現実の幅が狭くなります。

本当は、そこにはいくつもの側面があるはずです。

失敗の中には、痛みだけでなく、学びがあります。
喪失の中には、空白だけでなく、深く結びついていたものの大きさがあります。
不安の中には、危険だけでなく、大切にしたいものがあります。
怒りの中には、攻撃だけでなく、守りたかったものがあります。
停滞の中には、遅れだけでなく、立ち止まって見直す時間があります。

しかし、見方が固定されると、それらが見えなくなります。

現実は一つの意味に閉じ込められます。
そして、私たち自身もまた、その意味の中に閉じ込められていきます。

苦しみとは、その固定に気づかせるサインなのかもしれません。

「この出来事を、一つの意味だけで見ていないか」
「この現実を、敵としてだけ見ていないか」
「自分は、どの立場からこの出来事を見ているのか」
「ほかの見方は、本当にないのか」

苦しみは、現実そのものが間違っていることを示すだけではありません。
現実に対する自分の認識が、どこかで固まっていることを知らせている場合もあります。

もちろん、すべての苦しみにすぐ意味を見つける必要はありません。
つらいときに、無理に前向きな意味を探す必要もありません。

ただ、苦しみの中で少し余白が生まれたとき、こう問い直すことはできます。

自分が苦しみだと認識している現実は、本当に苦しみそのものなのだろうか。

それは、失敗だけなのか。
損失だけなのか。
不幸だけなのか。
行き止まりだけなのか。

それとも、自分の見方が変わるために現れている出来事でもあるのか。

この問いが生まれるとき、現実は少しずつ違って見え始めます。

見えるものが変わると、現実との関係が変わる

見方が変わったからといって、現実そのものがすぐに変わるわけではありません。

病気がすぐに治るわけではありません。
失ったものが戻るわけではありません。
過去が変わるわけではありません。
相手が急に変わるわけでもありません。

けれども、見えるものが変わると、現実との関係が変わります。

それまで痛みとしてしか見えなかったものの奥に、願いが見えてくることがあります。
不安としてしか見えなかったものの奥に、大切にしたい価値が見えてくることがあります。
怒りとしてしか見えなかったものの奥に、守りたかったものが見えてくることがあります。
喪失としてしか見えなかったものの奥に、深く結びついていたものが見えてくることがあります。

現実は変わっていない。
けれども、現実の意味が変わり始める。

そのとき、苦しみは単に取り除くべきものではなくなります。

自分の見方をほどき、現実をもう一度見直すための入口になります。

これは、現実から逃げることではありません。
現実を美化することでもありません。
苦しみに無理やり意味を与えることでもありません。

むしろ、現実をより正確に見ることです。

自分が貼りつけていた意味を少し脇に置き、そこに何が起きているのかを見直す。
自分の反応を責めるのではなく、その反応が何を知らせているのかを見る。
現実を変える努力をしながらも、同時に、現実を見る自分のあり方にも目を向ける。

そうすると、現実への働きかけも変わっていきます。

何でも我慢するのではありません。
すべてを受け入れるのでもありません。
相手に合わせ続けるのでもありません。

何を受けとめる必要があるのか。
何から距離を取る必要があるのか。
何を変える必要があるのか。
何を手放し、何を大切にし直す必要があるのか。

それが少しずつ見えやすくなります。

感情に巻き込まれているとき、私たちは現実を十分に見ることができません。
怒りや不安に押されて動くと、かえって必要な働きかけが見えにくくなることもあります。

けれども、出来事と反応と意味づけを少し分けて見られるようになると、現実への関わり方は変わります。

変化とは、現実を力でねじ伏せることだけではありません。
現実から逃げることでもありません。
自分を無理に作り替えることでもありません。

現実との関係が少し変わることで、次に見える行動も変わっていく。
そのことを、日常の一つの場面で考えてみます。

仮想事例:仕事で失敗したとき

たとえば、仕事で大きなミスをした人がいたとします。

確認不足があり、上司から注意を受け、同僚にも迷惑をかけてしまった。
その人は強く落ち込みます。

「自分はだめだ」
「信頼を失った」
「もう取り返しがつかない」
「この仕事に向いていないのかもしれない」

そのように感じるとき、本人にとって現実は、ただのミスではありません。
自分の価値が否定された出来事のように見えています。

もちろん、ミスを軽く扱ってよいわけではありません。
確認不足があったなら、そこは見直す必要があります。
迷惑をかけたなら、謝る必要もあります。
同じことを繰り返さないための工夫も必要です。

けれども、少し落ち着いて見てみると、そこにはいくつかの層があります。

実際に起きたのは、確認不足によるミスだった。
上司の注意は、仕事上の修正点を伝えるものだった。
同僚に迷惑をかけたことは、関係の中で対応すべき現実だった。

一方で、その人の内側では、

「自分は信頼されなければならない」
「失敗してはいけない」
「迷惑をかける自分には価値がない」

という意味づけが重なっていたのかもしれません。

そう考えると、苦しみの見え方が少し変わってきます。

ミスをした痛みはある。
迷惑をかけた現実もある。
しかし、それがすぐに「自分の価値がなくなった」という意味になるわけではありません。

強く落ち込んだのは、自分がいい加減だったからだけではなく、信頼を大切にしていたからかもしれません。
恥ずかしさの奥には、よい仕事をしたいという願いがあったのかもしれません。
不安の奥には、周囲との関係を大切にしたい思いがあったのかもしれません。

そう見えてくると、次にすることも変わります。

ただ自分を責め続けるのではなく、関係者に謝る。
確認手順を見直す。
必要なら上司に相談する。
同じミスを防ぐ仕組みを作る。
そして、自分の中にある「失敗してはいけない」という思い込みにも、少し目を向けてみる。

現実は変わっていません。
ミスをした事実も、注意を受けた事実も残っています。

けれども、その現実が意味するものは少し変わります。

それは、自分の価値が失われた証拠ではなく、仕事の仕方を見直し、自分が何を大切にしているのかを知る入口にもなりえます。

ありのままに見るとは、ミスをなかったことにすることではありません。
自分を責める物語から少し離れ、実際に起きたこと、必要な対応、自分の中で反応しているものを分けて見ることです。

そのとき、苦しみはただ自分を責め続ける力ではなく、現実との関わり方を見直す入口になっていきます。

このような見直しは、特別な場面だけで起こるものではありません。
私たちの日常の中で、静かに始めることができるものです。

おわりに:苦しみは、現実の見方を見直す呼びかけでもある

一つの出来事も、どのように見ているかによって、私たちの中でまったく違う意味を持ちます。

苦しみは、現実を変えよという叫びです。

その叫びを無視してはいけません。
苦しい環境にいるなら、環境を見直す必要があります。
身体が限界を迎えているなら、休む必要があります。
治療が必要なら、治療を受ける必要があります。
助けが必要なら、助けを求める必要があります。

けれども、苦しみはそれだけではありません。

苦しみは、現実を見る自分の見方を見直せという呼びかけでもあります。

この現実を、自分はどのように見ているのか。
何を恐れているのか。
何を守ろうとしているのか。
何を失ったと思っているのか。
どの意味に、自分は閉じ込められているのか。

その問いに静かに耳を澄ませるとき、苦しみに覆われていた現実は、少しずつ別の姿を現し始めます。

苦しみとは、現実と自分の見方とのあいだに生じる、ひずみのようなものなのかもしれません。

そのひずみに気づくとき、私たちは、現実を変えることだけでなく、現実を見る自分自身のあり方にも目を向け始めます。

現実に貼りつけていた意味をほどき、もう一度、そこに何があるのかを見つめ直すこと。
その静かな見直しの中から、私たちの生き方は少しずつ変わっていくのだと思います。

\ 最新情報をチェック /

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です