受け入れるとは、我慢することではない ― いのちの流れに沿って生きる

はじめに:受け入れるという言葉が苦しく聞こえるとき
「受け入れましょう」と言われると、少し苦しく感じることがあります。
納得できないことまで、納得しなければならないのか。
嫌だと思っていることを、よいことだと認めなければならないのか。
つらいことを、我慢しなければならないのか。
受け入れられない自分は、まだ未熟なのか。
そう感じる人もいるのではないでしょうか。
たしかに、「受け入れる」という言葉には、少し強い響きがあります。
人によっては、抵抗してはいけない、怒ってはいけない、悲しんではいけない、黙って耐えなければならない、という意味に聞こえることがあります。
けれども、ここでいう受け入れることは、我慢することではありません。
納得できないことを、無理に納得することでもありません。
嫌なことを、よいことだと肯定することでもありません。
自分の気持ちを押し殺して、何もなかったようにすることでもありません。
むしろ、受け入れることは、自分の中で今起こっていることを否定しすぎないことから始まります。
不安がある。
怒りがある。
疲れがある。
納得できない気持ちがある。
受け入れられない自分がいる。
そのことを、まずそのまま見る。
そこから、自分の身体や心や生活が、どの方向に整おうとしているのかが、少しずつ見えやすくなります。
ここでは、その内側から無理の少ない方向へ整おうとする動きを、いのちの流れとして考えてみたいと思います。
受け入れるとは、何もせずに耐えることではありません。
いのちの流れに沿って生きるために、まず今の自分を否定しすぎない態度なのです。
受け入れることは、肯定することではない
受け入れるという言葉を考えるとき、まず大切なのは、いくつかの誤解をほどいておくことです。
受け入れることは、すべてを肯定することではありません。
理不尽な出来事があったとき、それを「よいことだった」と言わなければならないわけではありません。
誰かの言葉に傷ついたとき、それを「気にしてはいけない」と押し込める必要もありません。
体調が悪いとき、「これもありがたいことだ」と無理に思おうとしなくてもよいのです。
受け入れることは、納得することとも少し違います。
人には、すぐには納得できないことがあります。
時間が経っても、納得できないことがあります。
頭では分かっていても、心がついていかないこともあります。
そのようなときに、「受け入れなければならない」と自分に言い聞かせると、かえって苦しくなることがあります。
また、受け入れることは、何もしないことでもありません。
現実を受け入れるとは、状況を放置することではありません。
つらい状況から距離を取ることが必要な場合もあります。
誰かに相談することが必要な場合もあります。
治療を受けることが必要な場合もあります。
生活を見直すことが必要な場合もあります。
受け入れることは、行動をやめることではありません。
むしろ、今起こっていることを否定しすぎずに見ることで、次に何が必要なのかが見えやすくなることがあります。
現実を見つめるからこそ、休む、相談する、距離を取る、整える、選び直すといった一歩が見えてくることがあるのです。
まず、あるがまま受け止める
受け入れることを、いきなり目指そうとすると難しくなります。
だから、最初は「受け入れる」よりも、まず「受け止める」と考える方がよいかもしれません。
あるがまま受け止めるとは、今起こっていることを、否定せずに見ることです。
不安があるなら、不安がある。
怒りがあるなら、怒りがある。
疲れているなら、疲れている。
悲しいなら、悲しい。
納得できないなら、納得できない。
受け入れられないなら、受け入れられない。
まず、そのように確認します。
ここでは、まだ前向きにならなくてもかまいません。
納得しなくてもかまいません。
許さなくてもかまいません。
解決しなくてもかまいません。
ただ、今そう感じている自分がいる。
その事実を、否定せずに見ます。
私たちは、つらい感情が出てきたとき、その感情そのものだけで苦しんでいるわけではないことがあります。
不安がある。
そのうえで、「不安になってはいけない」と責める。
怒りがある。
そのうえで、「こんなことで怒る自分は未熟だ」と責める。
疲れている。
そのうえで、「このくらいで疲れるなんて情けない」と責める。
このように、最初の苦しみに、さらに自己否定が重なることがあります。
あるがまま受け止めるとは、この二重の苦しみを少しゆるめることです。
不安を消そうとする前に、不安があることに気づく。
怒りを抑え込む前に、怒りがあることに気づく。
疲れを無視する前に、疲れていることに気づく。
それは、とても小さなことのようでいて、心身にとって大切な一歩です。
次に、あるがまま受け入れる
あるがまま受け止めることが少しできてくると、次に、あるがまま受け入れるという段階が見えてきます。
ここでいう受け入れるとは、そう感じている自分を責めず、今の自分として認めることです。
不安を感じている自分を責めない。
怒っている自分を責めない。
疲れている自分を責めない。
納得できない自分を責めない。
受け入れられない自分を責めない。
「今の自分には、こういう反応が起こっているのだ」
そのように、自分の内側に起こっていることを、少しだけ置いておく。
これが、あるがまま受け入れるということです。
受け止めることと、受け入れることは、似ていますが少し違います。
受け止めるとは、今起こっていることを否定せずに見ることです。
受け入れるとは、そう感じている自分を責めず、今の自分として認めることです。
たとえば、不安があるとします。
第一歩は、
「不安がある」
と気づくことです。
次の一歩は、
「今の自分には、不安がある。そう感じている自分を責めなくてよい」
と認めることです。
疲れているのに休めないときも、同じです。
「休めない自分はだめだ」と責める前に、
「今の自分は、それだけ気を張ってきたのかもしれない」
と見てみる。
食事を整えたいのに、つい食べすぎてしまうときも、
「意志が弱い」と決めつける前に、
「自分は何かを食べることで、緊張をゆるめようとしていたのかもしれない」
と見てみる。
そのように見たからといって、すぐに問題が解決するわけではありません。
けれども、自分を責めるだけでは見えなかったものが、少し見えてくることがあります。
受け入れるとは、何も見直さないという意味ではありません。
自分の中で何が起こっているのかを、責める前に見ようとすることです。
そのとき、心の抵抗が少しゆるみます。
否定しすぎると、いのちの声が聞こえにくくなる
私たちは、自分の状態を否定しすぎることがあります。
疲れているのに、「まだ大丈夫」と言い続ける。
不安があるのに、「気にしてはいけない」と押し込める。
つらいのに、「こんなことで弱音を吐いてはいけない」と責める。
休みたいのに、「休むのは怠けている」と考える。
納得できないのに、「早く前向きにならなければ」と急ぐ。
このように否定し続けると、身体や心が発しているサインを受け取りにくくなります。
本当は、身体は休みを求めているのかもしれません。
心は安心を求めているのかもしれません。
生活は調整を求めているのかもしれません。
人生は、これまでの方向を少し問い直そうとしているのかもしれません。
けれども、私たちが自分の反応を否定しすぎていると、その声は聞こえにくくなります。
疲れは、怠けではないかもしれません。
不安は、弱さではないかもしれません。
怒りは、ただのわがままではないかもしれません。
受け入れられない気持ちにも、何か大切なものを守ろうとする働きがあるのかもしれません。
もちろん、すべての感情にそのまま従えばよいということではありません。
大切なのは、感情の言いなりになることではありません。
その感情が何を知らせようとしているのかに、少し耳を澄ませることです。
あるがまま受け止めること。
あるがまま受け入れること。
それは、感情に振り回されることではなく、自分の中で起こっていることを、いのちのサインとして受け取る入口なのです。
いのちの流れに沿って生きる
いのちの流れとは、特別なものではありません。
身体、心、生活、人生が、無理の少ない方向へ整おうとする動きのことです。
疲れた身体が、休みを求める。
張りつめた心が、安心を求める。
無理の続いた生活が、調整を求める。
意味を見失いかけた人生が、向かう方向を問い直す。
そのような内側からの動きを、ここでは「いのちの流れ」と呼んでいます。
もちろん、放っておけば自然にすべてが整うという意味ではありません。
いのちの流れに沿って生きるとは、何でも自然に任せることではありません。
欲望のままに生きることでもありません。
努力しないことでもありません。
現実から逃げることでもありません。
むしろ、自分の身体や心や生活が知らせていることを受け取りながら、無理の少ない方向へ整えていくことです。
疲れているなら、休み方を考える。
不安が強いなら、安心できる条件を整える。
生活が詰まりすぎているなら、少し余白をつくる。
役割に押しつぶされているなら、その担い方を見直す。
意味が薄れているなら、自分が本当に大切にしたいことを問い直す。
その一つひとつが、いのちの流れに沿って生きることにつながります。
受け入れることは、ここで大切な前提になります。
なぜなら、今の自分を否定しすぎていると、何を整えればよいのかが見えにくくなるからです。
疲れを否定していると、休む必要に気づけません。
不安を否定していると、安心を求める心に気づけません。
怒りを否定していると、自分が何を大切にしていたのかが見えにくくなります。
受け入れられない自分を責めていると、その奥にある傷つきや願いに触れにくくなります。
まず、今の自分をあるがまま受け止める。
そして、そう感じている自分をあるがまま受け入れてみる。
そのとき、自分の身体や心や生活が、どの方向に整おうとしているのかが、少しずつ感じ取れるようになります。
そして、感じ取れたものに応じて、休む、整える、相談する、距離を取る、選び直す。
その小さな一歩の積み重ねが、いのちの流れに沿って生きることなのだと思います。
おわりに:受け入れられない自分から始めてよい
受け入れることは、すぐにできるものではありません。
むしろ、受け入れられないことがあるのは自然なことです。
どうしても納得できないこと。
思い出すとつらくなること。
許せないこと。
まだ整理できないこと。
前向きになれないこと。
人生には、そのようなものがあります。
だから、受け入れられない自分を責める必要はありません。
「まだ受け入れられない」
そう思うなら、そこから始めればよいのです。
受け入れられない自分がいる。
納得できない自分がいる。
怒っている自分がいる。
悲しんでいる自分がいる。
疲れきっている自分がいる。
その自分を、まずあるがまま受け止める。
そして、そう感じている自分を、少しずつ今の自分として認めてみる。
受け入れることは、特別に強い人だけができることではありません。
いのちの流れに沿って生きるために、何度も立ち戻る態度です。
受け入れられない自分から始めてよい。
その自分を責めずに受け止めるところから、身体や心や生活が発している声を、少しずつ聴き直すことができます。
そして、休む。
整える。
相談する。
距離を取る。
選び直す。
その小さな一歩の中に、いのちの流れに沿って生きる道は、少しずつ開けていくのだと思います。
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