わからないまま、
生きていく
喜多敏明
序章
眠れない夜
午前二時を過ぎても、彼女は眠れずにいた。
目を閉じると、昼間は何とか遠ざけていたことが、次々に頭の中へ戻ってくる。
この体調は、いつになったらよくなるのだろう。
また明日も、朝から身体が重かったらどうしよう。
今日も洗濯物を畳めなかった。
夕食も簡単なものしか作れなかった。
夫は何も言わなかったけれど、本当は呆れているのではないだろうか。
体調を崩してから、もう三年になる。
最初の頃は、休めば元に戻れると思っていた。
けれど、疲れやすさも、めまいも、頭痛も、なかなかなくならなかった。
いくつかの病院で検査を受けても、大きな異常は見つからなかった。
「特に問題はありません」
そう言われるたびに安心するはずなのに、彼女の中には別の心配が残った。
それなら、どうしてこんなに身体がつらいのだろう。
このまま治らなかったらどうしよう。
その考えの先には、また別の考えが待っていた。
最近、夫が、
「仕事を変えることも考えてる」
と言った。
もし、本当に仕事を変えたら。
収入が減ったらどうするのだろう。
自分も働かなければならなくなったら、この身体で働けるのだろうか。
そもそも夫は、今の生活を負担に感じているから、そんなことを考え始めたのではないだろうか。
そう考え始めると、胸の奥が苦しくなった。
夫は、そんな彼女を見て、ときどき言った。
「まだ起きてもいないことを考えても、しょうがないだろう」
彼に悪気がないことはわかっていた。
夫は真面目で、いつも自分のすべきことをきちんとする人だった。
仕事に行き、帰ってきて、翌日の準備をして、眠る。
起きたことには対処するけれど、まだ起きていないことを長く心配する人ではなかった。
彼女には、それができなかった。
考えても仕方がないとわかっていても、考えてしまう。
考えないようにしようとすると、かえって気になった。
もし見落としていることがあったら。
もし何か大切なことに気づかないまま時間が過ぎたら。
もし、あとになって「あのときもっと考えておけばよかった」と後悔したら。
そう思うと、考えることを途中でやめるのが怖かった。
枕元には、読みかけの小説が置いてあった。
子どもの頃から、本を読むのが好きだった。
静かな場所で本を開けば、その中には自分の知らない世界があり、知らなかった人の気持ちがあった。
読んでいるうちに、自分のことも少し遠いところから考えられるような気がした。
けれど最近は、数ページ読んでは同じところへ戻ることが増えていた。
文字を追っているはずなのに、頭の中では別のことを考えている。
彼女は本を閉じた。
時計を見ると、二時四十三分だった。
明日は、また寝不足になる。
寝不足になれば、めまいがひどくなるかもしれない。
そうしたら家事ができなくなる。
夫が帰ってきたとき、また部屋が散らかったままだったら。
そこまで考えて、彼女は小さく息を吐いた。
また始まった。
一つの心配を考えているうちに、別の心配が生まれ、その先にまた新しい心配が待っている。
自分でも、どこから始まったのかわからなくなることがあった。
そんな夜には、母に電話したくなった。
母は、彼女が何を話しても、最後まで聞いてくれた。
「そんなに先のことまで考えなくても大丈夫よ」
何度そう言われたかわからない。
夫に同じことを言われると腹が立つのに、母に言われると、肩の力が抜けた。
母は答えを持っているわけではなかった。
それでも、話しているうちに、頭の中にいっぱいになっていたものが少しずつ外へ出ていくような気がした。
彼女はスマートフォンを手に取った。
母の名前を見つめる。
けれど、こんな時間に起こすわけにはいかない。
スマートフォンを伏せ、再び布団に横になった。
暗い天井を見ながら、彼女は思った。
どうして私は、こんなに考えてしまうのだろう。
考えたくないのに、考えてしまう。
答えが出ないとわかっているのに、答えが見つかるまで考えたくなる。
安心したいだけなのに、考えれば考えるほど、心配は増えていく。
それでも彼女は、まだ知らなかった。
これから自分が直面することが、これまででいちばん大きな「わからない」になることを。
そして、その「わからない」と向き合うことが、自分の生き方を変えていくことを。
第1章
考えることで、生きてきた
彼女は、子どもの頃からあまり活発な方ではなかった。
外で走り回るより、家の中で本を読んでいる方が好きだった。
身体もあまり丈夫ではなく、季節の変わり目にはよく熱を出し、学校を休むこともあった。
体育の授業でみんなについていけないこともあり、友だちの輪の中へ自分から入っていくのも得意ではなかった。
教室で誰かが楽しそうに話しているのを見ながら、少し離れたところからその様子を眺めていることが多かった。
何か言いたいことがあっても、「こんなことを言ったらどう思われるだろう」と先に考えてしまう。
そうしているうちに、話すタイミングを逃すこともあった。
本の中では、そんな心配をする必要がなかった。
本を開けば、そこには自分とは違う人がいて、自分の知らない町があり、自分では経験したことのない人生があった。
悲しい物語を読めば一緒に悲しくなり、誰かが困難を乗り越える話を読めば、自分まで強くなったような気がした。
わからないことがあれば、何度でも前のページへ戻ることができた。
物語の終わりまで読めば、途中で起きた出来事の意味がわかることもあった。
彼女にとって本は、静かで安心できる場所だった。
中学二年生の冬、父が亡くなった。
それまでにも入院することはあったが、家族の誰も、こんなに早く父がいなくなるとは思っていなかった。
病院から帰る途中、母の横顔を見ながら、彼女は現実に起きたことをうまく理解できなかった。
前の日までいた人が、今日はもういない。
昨日まで続いていた生活が、何の準備もなく終わることがある。
そのことが、怖かった。
葬儀が終わってしばらくしてからも、朝起きると一瞬だけ、父がまだ家にいるような気がすることがあった。
すぐに現実を思い出し、そのたびに胸の奥が冷たくなった。
父が亡くなってから、母と二人で話す時間が増えた。
母も悲しかったはずだが、娘の前ではできるだけいつも通りに振る舞っていた。
学校で嫌なことがあった日も、体調が悪かった日も、母は彼女の話を聞いてくれた。
「それは心配だったね」
「そんなことがあったの」
「よく頑張ったね」
すぐに答えを出すのではなく、まず話を聞いてくれた。
彼女は、話しているうちに落ち着いていく自分に気づいた。
自分の中だけにあると大きく見える問題も、言葉にして母に話すと、ほんの少し小さくなる。
それから彼女は、何かあるたびに母に相談するようになった。
進学するとき。
就職するとき。
職場の人間関係で悩んだとき。
結婚するとき。
体調を崩したとき。
母が答えを決めてくれるわけではなかった。
それでも母に話すと、「自分一人で考えなくていい」と思えた。
大人になってからも、その習慣は変わらなかった。
大学を卒業したあと、彼女は事務の仕事に就いた。
派手な仕事ではなかったが、決められたことを正確に進める仕事は自分に合っていると思った。
わからないことは確認し、間違いがないように何度も見直した。
周囲からは「丁寧な人」と言われた。
仕事を任されると、迷惑をかけないように早めに準備した。
失敗しそうなことがあれば、事前にできるだけ考えておいた。
彼女自身、それを悪いことだとは思っていなかった。
むしろ、よく考えることは、自分が失敗しないための大切な方法だった。
結婚した夫は、彼女とはかなり違う人だった。
夫は真面目だったが、先のことを長く心配する方ではなかった。
何か問題が起これば、そのとき考えればいいという人だった。
旅行に行くときでも、彼女が天気や交通手段や忘れ物を何度も確認する横で、
「まあ、何とかなるよ」
と笑っていた。
その言葉を聞くたびに、彼女は不思議に思った。
何とかならなかったら、どうするのだろう。
そう考えないでいられること自体が、彼女には理解できなかった。
それでも二人の生活は、最初の頃は大きな問題なく続いていた。
夫は仕事をし、彼女も仕事をし、休みの日には一緒に買い物をした。
そんな生活が、この先も続いていくのだと、どこかで思っていた。
三年前、職場で人の入れ替わりがあり、彼女の仕事は急に増えた。
人が減った分、これまで別の人が担当していた仕事まで引き受けるようになった。
最初のうちは、「一時的に忙しいだけ」と思っていた。
頼まれれば断らなかった。
みんなも大変なのだから、自分だけできないとは言いたくなかった。
任された仕事は、間違いがないように何度も確認した。
誰かにお願いできることもあったが、人に任せると、今度はその仕事がちゃんと進んでいるか気になった。
結局、自分でも確認してしまうことが多かった。
仕事が終わって家に帰っても、頭の中では仕事が続いていた。
あの書類は、あれでよかっただろうか。
伝えるべきことを忘れていなかっただろうか。
明日は、まず何から始めればいいだろう。
布団に入ってから思い出し、翌朝になれば確認できることまで考え続けた。
次第に眠れなくなった。
朝起きても疲れが取れず、通勤電車で立っているのがつらくなった。
頭痛が増え、ときどきめまいもするようになった。
それでも彼女は、仕事を休もうとは思わなかった。
自分が休めば、誰かに負担がかかる。
今でも人が足りないのに、これ以上迷惑をかけられない。
みんな働いているのだから、自分も頑張らなければならない。
そう考えて、朝になると支度をした。
ある日、駅のホームで急に足元が揺れるような感じがして、その場にしゃがみ込んだ。
しばらく休んでも立ち上がれず、その日は会社へ行くことができなかった。
それをきっかけに、彼女はいくつかの病院を受診した。
血液検査も、画像検査も受けた。
けれど、大きな異常は見つからなかった。
「しばらく休めばよくなるでしょう」
そう言われて休職した。
仕事から離れれば、身体はすぐに元に戻ると思っていた。
けれど、思うようには回復しなかった。
朝起きても身体が重く、少し動くと疲れる。
頭痛やめまいにも波があった。
夜になると、今度は自分の身体のことを考えた。
いつになったら治るのだろう。
何か見落とされている病気があるのではないか。
このまま仕事に戻れなかったらどうしよう。
仕事について考えていた頭が、今度は体調について考え続けるようになった。
数か月後、彼女は仕事を辞めた。
退職を決めるまでにも、何週間も考えた。
本当に辞めていいのか。
もう少し頑張れば戻れるのではないか。
辞めたあとに後悔しないか。
夫の負担が増えるのではないか。
自分は逃げているだけではないか。
母は電話の向こうで言った。
「今の身体で無理を続ける方が心配よ」
その言葉に背中を押されて、ようやく退職届を出した。
仕事を辞めれば、身体も心も楽になると思っていた。
けれど、仕事という役割を失うと、今度は別のことが気になり始めた。
家にいるのだから、家事くらいはきちんとしなければ。
夫が働いている分、自分は家庭のことをしなければ。
そう思うのに、朝から身体が重く、洗濯をしただけで横になりたくなる日があった。
夕方になっても夕食を作れないこともあった。
夫は仕事から帰り、散らかった部屋を見ると、ため息をつくことがあった。
「今日も具合が悪かったの?」
その言葉だけで、彼女は責められているような気持ちになった。
夫に悪気がないことはわかっていた。
けれど、彼女自身がすでに自分を責めていた。
何もしていない。
役に立っていない。
妻として十分ではない。
そんな思いが積もっていった。
ある日、夫が言った。
「仕事、変えることも考えてるんだ」
彼女は夫を見た。
「辞めるの?」
「いや、まだ何も決めてないよ」
夫はそう言ってから、
「ただ、このままずっと今の仕事を続けるのかなって、最近ちょっと考えることがあって」
と続けた。
夫はそのあと、別の話を始めた。
けれど彼女の中には、その言葉が残った。
どうして急にそんなことを考え始めたのだろう。
今の仕事が嫌になったのだろうか。
もっと違う仕事をしたいのだろうか。
それとも、今の生活を一人で支えることが重くなってきたのだろうか。
私が働いていないからだろうか。
もし夫が仕事を変えたら、収入はどうなるのだろう。
一時的に仕事がなくなることもあるのだろうか。
そうなったら、自分も働かなければならないのではないか。
この身体で、また働けるのだろうか。
そして何より、夫は、本当は私のことをどう思っているのだろう。
そんなとき、彼女は母に電話した。
「また考えてるの?」
母はときどき笑いながら言った。
「あなたは昔からそうね」
責める言い方ではなかった。
むしろ、娘のことをよく知っている人の声だった。
「でも、考えすぎても未来はわからないわよ」
その言葉を聞くと、一時的に気持ちが軽くなった。
けれど、電話を切ってしばらくすると、また考え始める。
彼女自身も、自分が考えすぎることはわかっていた。
それでも、考えることをやめることはできなかった。
よく考えておけば、間違えずにすむ。
悪いことを予測しておけば、突然の出来事にも備えられる。
大切なことを見落とさずにすむ。
彼女は、どこかでそう信じていた。
仕事をしていた頃も、そうだった。
考えて、確認して、準備しておけば、人に迷惑をかけずにすむと思っていた。
けれど、仕事が増えたとき、そのやり方を変えることができなかった。
任せることも、休むことも、途中で考えるのをやめることも難しかった。
父が突然いなくなった日の記憶も、彼女の中には残っていた。
昨日まで続いていたものが、明日も同じように続くとは限らない。
それを、彼女は知っていた。
だからなのか、何かが起きる前に気づきたいという思いが、いつもどこかにあった。
けれど、それだけが理由だったわけではない。
彼女は昔から、考え、確認し、準備することで、学校でも仕事でも日々を生きてきた。
考えることは、長いあいだ彼女を守ってきた。
仕事でも、生活でも、それは彼女の丁寧さや責任感として役に立ってきた。
けれどいつの間にか、その考える力が、彼女を守るだけではなく、彼女を休ませないものにもなっていた。
第2章
町の漢方診療所
彼女が町の漢方診療所を訪れたのは、仕事を辞めてから半年ほど経った頃だった。
退職すれば次第に元気になると思っていたが、身体は思うようには戻らなかった。
朝から身体が重い日がある。
洗濯や買い物をしただけで、午後には横になりたくなることもある。
立ち上がったときにふらついたり、頭痛が続いたりすることもあった。
夜になると疲れているはずなのに、なかなか眠れない。
いくつかの病院を受診し、そのたびに検査を受けた。
けれど、大きな異常は見つからなかった。
異常がないと聞けば、その瞬間はほっとする。
しかし家に帰る頃には、別の疑問が浮かんだ。
では、このつらさは何なのだろう。
何か見落とされているのではないだろうか。
このままずっと続くのではないだろうか。
母にその話をすると、
「近くに漢方を診てくれる先生がいるみたいよ」
と言った。
知人から聞いたらしい。
彼女はすぐには行かなかった。
漢方で本当によくなるのだろうか。
これまで何度も病院へ行って変わらなかったのだから、また同じなのではないか。
新しい病院へ行けば、最初から全部説明しなければならない。
そう考えると、それだけで疲れる気がした。
それでも、ある朝、起き上がったときに強いめまいがして、その日の午後に電話をした。
診療所は、駅から少し離れた住宅街の一角にあった。
大きな看板もなく、知らなければ通り過ぎてしまいそうな建物だった。
待合室には数人の患者がいた。
彼女は受付を済ませ、問診票を受け取った。
「一番困っている症状」
という欄で、手が止まった。
疲れやすさ。
めまい。
頭痛。
不眠。
どれが一番なのかわからなかった。
考えた末に、「疲れやすい」と書いた。
けれど、それだけでは足りない気がして、余白にいくつも症状を書き足した。
診察室に呼ばれると、六十代くらいの男性医師が机の向こうに座っていた。
白衣を着ていたが、どこか町の学校の先生のような落ち着いた雰囲気があった。
声は低く、穏やかだった。
「どうぞ、おかけください」
彼女が椅子に座ると、医師は問診票を見た。
「疲れやすいのが、一番お困りですか」
「はい。でも、めまいもありますし、頭痛もあって。夜もあまり眠れなくて」
彼女はそこから、これまでの経過を話し始めた。
三年前に仕事が忙しくなったこと。
眠れなくなったこと。
駅でめまいを起こしたこと。
休職したこと。
検査を受けても異常がなかったこと。
結局、仕事を辞めたこと。
話しているうちに、
「あ、この話もしておいた方がいいかもしれない」
と思うことが次々に浮かんだ。
胃腸の調子。
冷え。
肩こり。
月経のこと。
食欲のこと。
以前の病院では、診察時間を気にして、できるだけ短く説明しようとしていた。
けれど、この医師は途中で遮らなかった。
ときどき、
「それはいつ頃からですか」
「朝と夕方では、どちらがつらいですか」
と短く尋ねるだけだった。
彼女が話し終えると、医師は脈を診て、舌を見て、腹部にも触れた。
それから、これまでの検査結果を確認した。
「大きな病気が隠れている可能性は、今までの検査からは高くなさそうですね」
彼女はほっとした。
けれど、すぐにいつもの疑問が出てきた。
「でも、どうしてこんなに疲れるんでしょうか」
医師はすぐには答えなかった。
「身体の調子は、検査の数字だけでは説明できないこともあります」
そう言ってから、
「睡眠や食事、生活のリズム、それに身体が回復していく力など、いくつかのことが重なっているのかもしれませんね」
と続けた。
彼女はうなずいた。
「漢方で治りますか」
思わず尋ねた。
医師は一呼吸置いた。
「整えていけるところはあると思います。ただ、どこまで、どのくらいの時間で変わるかは、今の段階では何とも言えません」
期待していた答えではなかった。
本当は、
「大丈夫です。治りますよ」
と言ってほしかったのだと思う。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
わからないことを、わかったように言わない人なのだと思った。
医師は漢方薬を処方し、生活についていくつか尋ねた。
「今は、お仕事はされていないんですね」
「はい」
その一言だけで、彼女の胸の中に小さな痛みが走った。
何もしていない人だと思われるのではないか。
そう感じて、
「家のことはしているんですけど、体調が悪い日はそれもあまりできなくて」
と、言い訳のように付け足した。
医師はただ、
「そうですか」
とうなずいた。
責める様子も、励ます様子もなかった。
それがかえって、彼女には不思議だった。
診察が終わるのかと思ったとき、医師が尋ねた。
「最近、身体のこと以外で、何か気になっていることはありますか」
彼女は迷った。
身体を診てもらいに来たのだから、そんなことまで話す必要はないと思った。
けれど、なぜか口が動いた。
「夫が、仕事を変えることも考えているみたいで……」
医師は黙って聞いていた。
「まだ何も決めていないって言っているんです」
彼女は続けた。
「でも、私が今、働いていないので」
そこまで言うと、急に喉が詰まった。
「もし夫が仕事を変えて、収入が減ったらどうするんだろうとか、私も働かなきゃいけなくなるのかなとか……」
言葉が止まらなくなった。
「私がこんなだから、夫は自分の好きなように仕事を選べないんじゃないかって思うんです」
「今の仕事を本当は辞めたいのに、私が働いていないから辞められないんじゃないかとか」
「逆に、もっと頑張らなきゃいけないと思っているんじゃないかとか」
話しているうちに、目に涙がたまった。
彼女は慌ててバッグからハンカチを出した。
「すみません」
医師は、
「いいですよ」
とだけ言った。
それから何も言わなかった。
診察室に沈黙が落ちた。
彼女は泣きながら、恥ずかしくなった。
こんなことまで話すつもりではなかった。
けれど、医師は急かさなかった。
慰めようとも、すぐに何か助言しようともしなかった。
ただ待っていた。
しばらくして、彼女の呼吸が落ち着いた頃、医師が静かに言った。
「ずいぶん、いろいろなことを考えてきたんですね」
彼女は顔を上げた。
それだけだった。
「考えすぎですよ」とも言われなかった。
「気にしなくていいですよ」とも言われなかった。
ただ、自分がずっと考えてきたことを、そのまま受け取ってもらったような気がした。
「はい」
彼女は小さく答えた。
その一言を口にすると、肩の力が抜けた。
診察室を出ると、待合室には次の患者が座っていた。
薬を受け取り、外へ出る。
体調が急によくなったわけではない。
心配がなくなったわけでもない。
夫の仕事について、何か答えが見つかったわけでもなかった。
夫が実際に何を考えているのか、自分にはわからない。
まだ、仕事を変えると決めたわけでもない。
それなのに、自分の頭の中では、もういくつもの先のことまで起きていた。
それでも、帰り道を歩きながら、彼女はふと思った。
今日、自分は身体のことを話しに来たはずだった。
けれど、自分が抱えていたつらさは、身体のことだけではなかったのかもしれない。
その夜、処方された漢方薬を飲んだ。
苦みのある香りが口の中に残った。
すぐに何かが変わるとは思えなかった。
それでも、診察室で言われた言葉を思い出した。
「ずいぶん、いろいろなことを考えてきたんですね」
母以外の人に、そんなふうに言われたのは初めてだった。
彼女はその夜も、すぐには眠れなかった。
けれど、いつものように「考えるのをやめなければ」と焦ることはなかった。
私は、本当にずっと考えてきたんだな。
そう思うと、少し離れたところから自分を見るような気持ちになった。
それが何を意味するのか、まだ彼女にはわからなかった。
第3章
母が倒れた
その電話がかかってきたのは、平日の午後だった。
彼女は家で洗濯物を畳んでいた。
朝から身体が重く、途中で何度か休みながら、ようやく干していたものを取り込んだところだった。
知らない番号からの着信だった。
一瞬、出るのをためらった。
営業の電話かもしれない。
そう思いながらも、なぜか胸騒ぎがして通話ボタンを押した。
「○○さんの娘さんでしょうか」
病院からだった。
母が自宅で倒れ、救急搬送されたという。
近所の人が異変に気づき、救急車を呼んでくれたらしい。
詳しいことはまだわからないので、できれば病院へ来てほしいと言われた。
電話を切ったあと、彼女はしばらく立ったまま動けなかった。
母が倒れた。
その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返された。
何が起きたのだろう。
意識はあるのだろうか。
命に関わるのだろうか。
次々に考えが浮かんだ。
夫に連絡しなければと思った。
バッグに何を入れればいいのかもわからなくなった。
財布。
スマートフォン。
充電器。
診察券。
いや、母の診察券は自分の手元にはない。
そんなことを考えている自分が急におかしく思えた。
今はそんなことを考えている場合ではない。
それでも頭は、何かを考え続けずにはいられなかった。
病院に着くまでの間、彼女は何度も母に電話をかけた。
もちろん出なかった。
出るはずがないとわかっていても、かけずにはいられなかった。
電車の窓に映る自分の顔が青白く見えた。
父が亡くなったときのことが、突然よみがえった。
病院の廊下。
母の横顔。
大人たちの低い声。
昨日まであったものが、急になくなる感覚。
彼女は目を閉じた。
違う。
まだ何もわかっていない。
母が亡くなったわけではない。
そう自分に言い聞かせる。
それでも心の中では、すでに最悪のことまで考えていた。
病院では、しばらく待たされた。
時間がとても長く感じられた。
看護師が通るたびに、何か言われるのではないかと思って顔を上げた。
ようやく医師から説明を受けた。
命に別状はない。
その言葉を聞いた瞬間、彼女は力が抜けそうになった。
よかった。
本当によかった。
しかし、その安心は長く続かなかった。
「今後どこまで回復するかは、しばらく経過を見ないとわかりません」
医師がそう言った。
その「わかりません」という言葉だけが、強く残った。
「元の生活には戻れますか」
彼女はすぐに尋ねた。
「現時点では何とも言えません」
「一人で暮らせるようになりますか」
「それも、これからの回復を見ながら考えていくことになります」
「また倒れることはありますか」
「可能性については、これから検査結果も含めて見ていきます」
答えを聞くたびに、彼女の中には別の質問が生まれた。
聞けば安心できると思っていた。
けれど、聞いても聞いても、確かな答えは返ってこなかった。
病室で母を見たとき、彼女は胸が詰まった。
母は目を閉じていた。
呼びかけると、ゆっくり目を開けた。
「来たの」
かすかな声だった。
彼女は思わず母の手を握った。
いつもなら、自分が不安なときに話を聞いてもらう相手だった。
その母が、今はベッドの上にいた。
「大丈夫?」
彼女は尋ねた。
母は小さくうなずいた。
「心配しなくていいから」
弱々しい声だった。
その言葉を聞いた瞬間、彼女は泣きそうになった。
いつもと同じ言葉だった。
けれど、今日は何の支えにもならなかった。
むしろ、その言葉を言わせてしまったことが申し訳なく感じられた。
自分がしっかりしなければならない。
そう思った。
帰宅したのは夜遅くだった。
夫は先に帰っていて、簡単な夕食を用意してくれていた。
「どうだった?」
彼女は病院で聞いたことを話した。
命に別状はないこと。
今後の回復はまだわからないこと。
しばらく入院が必要なこと。
夫は黙って聞いたあと、
「とりあえず、命に別状がなくてよかったな」
と言った。
彼女もうなずいた。
それで終わればよかった。
けれど、頭の中ではすでに次のことが始まっていた。
母が元の生活に戻れなかったらどうするのだろう。
一人暮らしができなくなったら。
介護が必要になったら。
自分が世話をしなければならないのだろうか。
でも、この身体でできるのだろうか。
頻繁に母の家へ通えるだろうか。
もし同居することになったら、夫はどう思うだろう。
夫は、仕事を変えることも考えていると言っていた。
母のことまで重なったら、夫は自分の思うように仕事を選べなくなるのではないか。
結局、自分のために今の仕事を続けてもらわなければならなくなるのではないか。
もし収入が減ったら、自分も働かなければならないのではないか。
この身体で、母のことを支えながら働くことなどできるのだろうか。
考えているうちに、胸が苦しくなってきた。
夫が言った。
「今から全部考えなくてもいいんじゃないか」
彼女は顔を上げた。
「でも、考えておかないと」
「まだ何も決まってないだろう」
「だから心配なの」
強い声になった。
夫は黙った。
それから、
「まだわからないことを今から全部考えても、答えは出ないよ」
と言った。
彼女はその言葉に、苛立ちを感じた。
そんなことはわかっている。
答えが出ないから困っているのだ。
わからないから、考えているのだ。
考えなければ、もっと不安になる。
その夜、彼女はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、病室の母の顔が浮かんだ。
そこからまた考えが広がっていく。
退院できなかったら。
歩けなくなったら。
一人で暮らせなくなったら。
施設に入ることになったら。
自分が決めなければならなくなったら。
母は嫌がるのではないか。
自分は後悔するのではないか。
そんなことを考えているうちに、父のことまで思い出した。
あのときも、突然だった。
昨日までいた父が、いなくなった。
そして今、母までいなくなったら。
その考えが浮かんだ瞬間、涙がこぼれた。
彼女は布団の中で声を押し殺した。
夫を起こしたくなかった。
こんなとき、母に電話したかった。
いつものように、
「大丈夫よ」
と言ってほしかった。
スマートフォンに手を伸ばしかけて、止まった。
その母は今、病院にいる。
話を聞いてもらうことはできない。
むしろ、自分が支えなければならない。
そのことに気づいたとき、彼女は急に一人になったような気がした。
今まで、自分が不安になるたびに母へ話していたこと。
答えが出なくても、母に聞いてもらえば何とか次の日を迎えられたこと。
それが今はできない。
彼女は暗い部屋の中で、何度も寝返りを打った。
考えれば考えるほど、心配は増えていった。
どれもまだ起きていない。
それでも彼女の中では、すでに起こり始めているようだった。
翌朝、ほとんど眠れないまま目を開けた。
身体は重く、頭も痛かった。
今日は母の病院へ行かなければならない。
そう思いながら起き上がる。
洗面所の鏡に映った自分の顔を見て、彼女は思った。
私は、これからどうすればいいのだろう。
けれど、いくら考えても答えは見つからなかった。
そして数日後、彼女は再び、あの町の漢方診療所を訪れることになる。
第4章
心配の種は、増えていく
母が入院してから、彼女の一日は病院を中心に回るようになった。
朝起きると、まずスマートフォンを見る。
病院から連絡が来ていないか。
母から何かメッセージが届いていないか。
何もなければ、ほっとする。
けれど、その安心は長く続かなかった。
今日はどんな様子だろう。
昨日より悪くなっていないだろうか。
このまま順調に回復するのだろうか。
気がつくと、もう考え始めていた。
母の病院へ行く日は、その前から疲れていた。
電車の中でも、病室へ向かう廊下でも、頭の中では先のことを考えていた。
もし一人暮らしに戻れなかったら。
退院後に介護が必要になったら。
自分が毎日通うことになったら。
それで体調を崩したら。
夫との生活までうまくいかなくなったら。
夫は仕事を変えることも考えていると言っていた。
もし母のことまで重なったら、夫は自分の思うように仕事を選べなくなるのではないか。
考えているうちに、どこまでが今起きていることで、どこからがまだ起きていないことなのか、自分でもわからなくなることがあった。
母の病状は次第に落ち着いていた。
医師からも、急に悪くなっているわけではないと言われていた。
それでも彼女の心は落ち着かなかった。
安心できる材料が増えても、別の心配が現れた。
ある日、母が元気そうに話しているのを見て、彼女はほっとした。
その帰り道だった。
今度は、
このまま元気になったとしても、一人で生活できるのだろうか。
という考えが浮かんだ。
それに続いて、
もし母が「家に帰りたい」と言ったらどうするのだろう。
無理にでも帰らせるべきなのだろうか。
危ないから止めるべきなのだろうか。
自分が決めなければならないのだろうか。
そんなことまで考え始めた。
家に帰ると、夫が夕食を作っていた。
「今日はどうだった?」
「昨日より話せてた」
「じゃあ、安心だな」
夫はそう言った。
彼女も一度はうなずいた。
けれど、すぐに言った。
「でも、退院したあとが心配で」
夫は箸を止めた。
「もう退院の話が出たの?」
「まだ」
「じゃあ、それはそのとき考えればいいんじゃない?」
またその言葉だ。
彼女は黙った。
夫の言うことが間違っているとは思わない。
それでも、そのときまで考えずに待つことなど、自分にはできないと思った。
考えておかなければ、急に何かを決めなければならなくなったとき困る。
その夜も眠れなかった。
翌朝、めまいが強くなった。
頭痛も続いた。
身体は明らかに疲れているのに、頭だけが休まなかった。
数日後、彼女は漢方診療所を訪れた。
診察室に入ると、医師はいつものように静かにうなずいた。
「その後、いかがですか」
「母が倒れて、入院していて」
彼女はそう言った途端、胸にためていたものが一気に出てきた。
母が倒れた日のこと。
救急搬送されたこと。
命に別状はないと言われたこと。
でも、どこまで回復するかはわからないと言われたこと。
その先のことを考えると、どうしていいかわからなくなること。
「一人暮らしができなかったら、私が見ないといけないと思うんです。でも、今の私の体調でできるのかもわからなくて」
医師は黙って聞いていた。
「もし介護が必要になったら、夫にも負担をかけると思うんです。夫は仕事を変えることも考えているのに、自分の思うように仕事を選べなくなるかもしれないし。でも母を放っておくわけにもいかないし」
「もし夫が今の仕事を続けることになったら、それは私や母のことがあるからかもしれないし、逆に仕事を変えて収入が減ったら、私も働かないといけなくなるかもしれないし」
言葉が次々に出てきた。
「施設に入ることになったら、母は嫌がるかもしれないし、私が決めたらあとで後悔するかもしれないし。そもそも、そこまで考えていいのかもわからないし」
自分でも、何を一番困っているのかわからなくなっていた。
医師は彼女の話が止まるまで待っていた。
やがて尋ねた。
「最初に心配になったことは、何だったのでしょう」
彼女はすぐには答えられなかった。
最初。
どこが最初だったのだろう。
母が倒れたこと。
病院へ運ばれたこと。
これからの生活。
介護。
夫の仕事。
自分の体調。
いくつものことが頭の中で絡まっていた。
しばらくして、彼女は言った。
「母が元気になるかどうか、です」
医師はうなずいた。
「そうでしたか」
それから机の上に一枚の紙を置いた。
中央に、小さな丸を一つ描いた。
「最初は、これだったのかもしれませんね」
彼女は紙を見た。
医師はその丸から一本の線を引いた。
「そこから、退院できるかどうか」
もう一本。
「一人で暮らせるかどうか」
さらにもう一本。
「介護が必要になるかどうか」
そこからまた枝を伸ばした。
「そうなったら、ご主人との生活はどうなるか」
別の枝。
「ご主人の仕事はどうなるか」
また別の枝。
「あなたの体調はもつか」
小さな丸だったものが、いつの間にか何本もの線で広がっていた。
彼女はその紙を見つめた。
自分の頭の中を、そのまま外へ出されたような気がした。
「最初は、一つだったんですね」
思わず口にした。
「そうかもしれませんね」
医師は言った。
「でも、どれも起こるかもしれないことですよね」
彼女はすぐに言い返した。
「そうですね」
医師は否定しなかった。
「起こる可能性がないとは言えません」
その答えに、彼女は身構えた。
また「わからない」と言われる気がした。
けれど、医師は続けた。
「ただ、今起きていることと、これから起こるかもしれないことは、同じではありません」
彼女は紙を見た。
中央の丸。
そこから伸びたたくさんの枝。
「私は、先のことを考えすぎているんでしょうか」
医師はすぐには答えなかった。
「考えること自体が悪いとは思いません」
彼女は顔を上げた。
夫からは何度も、
「そんなに考えても仕方ない」
と言われていた。
自分でも、考えすぎなのだと思っていた。
だから医師も、
「考えないようにしなさい」
と言うのだと思っていた。
「考えることで、準備できることもあります」
医師は言った。
「ただ、考えているうちに、まだ起きていない問題まで次々に増えていくことがあります」
彼女は黙った。
医師は紙の枝を指でたどった。
「一つの心配の先に、また別の心配が出てくる。そうしているうちに、最初に何を心配していたのかわからなくなることもあります」
彼女は苦笑した。
「あります」
しばらくしてから、彼女は言った。
「でも、先生。考えないわけにはいかないんです」
声に力が入った。
「考えるのをやめたら、何か大事なことを見落とす気がするんです」
医師は静かに聞いていた。
「あとになって、あのときちゃんと考えておけばよかったって思うのが怖いんです」
そこまで言って、父が亡くなったときのことが頭をよぎった。
何の準備もないまま、突然いなくなった父。
あのときの感覚は、今も彼女の中に残っていた。
けれど、それだけではなかった。
彼女はずっと、考え、確認し、準備することで生きてきた。
先まで考えておくことは、彼女にとって自分を守るためのやり方でもあった。
医師はしばらく彼女を見ていた。
「考えないようにしなくてもいいと思いますよ」
彼女は意外そうに顔を上げた。
「え?」
「無理に考えないようにすると、余計に気になることもありますから」
医師は紙を彼女の方へ寄せた。
「では、考えないようにするのではなくて」
一呼吸置いた。
「何を考えればよいのかを、一緒に見てみませんか」
彼女は紙を見た。
一つの丸から、たくさんの枝が伸びている。
今までの彼女は、その枝を一本ずつ追いかけていた。
その先にまた枝があれば、さらに追いかけた。
どこまで行けば安心できるのかは、わからなかった。
「何を考えればいいのか……」
彼女は繰り返した。
考えるか、考えないか。
それしかないと思っていた。
けれど、別のやり方があるのかもしれない。
診察が終わり、外へ出た。
道を歩きながらも、母のことは気になっていた。
心配が消えたわけではない。
これから先のことも、まだ何もわからない。
けれど、彼女の頭の中には、診察室で見た一枚の紙が残っていた。
中央に一つの丸。
そこから、いくつもの線が伸びている。
その夜、また先のことを考え始めたとき、彼女はふと気づいた。
今、また枝を伸ばしている。
考えることが止まったわけではなかった。
心配も消えなかった。
それでも、自分が何をしているのかを、少し離れたところから見られたような気がした。
彼女はまだ、枝をどこで止めればいいのかを知らなかった。
けれど次の診察で、そのことを医師に聞いてみようと思った。
第5章
私にできること
次の診察までのあいだ、彼女は何度も、あの紙を思い出した。
中央に一つの丸。
そこから、いくつもの枝が伸びていた。
母のことを考え始めると、また別の心配が出てくる。
そのたびに、
また枝を伸ばしている。
と気づくようになった。
それだけで心配が消えるわけではなかった。
けれど、以前とは少し違った。
考えている自分と、そのことに気づいている自分とのあいだに、わずかな距離ができたような感じがした。
ある夜、彼女は母の退院後のことを考えていた。
一人暮らしに戻れなかったらどうしよう。
自分が通わなければならなくなるかもしれない。
毎日通うことになったら、身体がもたないかもしれない。
そうしたら夫に負担をかける。
夫の仕事のことにも影響するかもしれない。
そこまで考えたところで気づいた。
まただ。
また枝が伸びている。
彼女は考えるのをやめようとした。
けれど、やめようとすると、余計に気になった。
では、何を考えればいいのだろう。
前の診察で医師が言った言葉を思い出した。
その問いには、まだ自分では答えられなかった。
次の診察の日、彼女は診察室に入ると、早速そのことを話した。
「先生、この前の紙のこと、何度も思い出しました」
医師はうなずいた。
「そうですか」
「また枝を伸ばしてるなって、わかるようになったんです」
「気づけるようになったんですね」
医師はそう言って、彼女の話を聞いた。
「でも、だからって止められるわけじゃないんです」
「そうでしょうね」
「それで、先生が言っていた、何を考えればいいのかっていうのが、よくわからなくて」
医師は机の上に新しい紙を置いた。
そして、大きな円を一つ描いた。
「では、今日はこれを一緒に考えてみましょうか」
彼女は紙を見た。
医師は円の上に、
「気になっていること」
と書いた。
「今、お母さんについて気になっていることを、思いつくまま挙げてみてください」
彼女は考えた。
「元の生活に戻れるかどうか」
医師が書く。
「また倒れないか」
それも書く。
「一人で暮らせるようになるか」
「介護が必要になるか」
「施設に入らないといけなくなるか」
「私がどれくらい手伝わないといけないか」
次々に言葉が出てきた。
医師は何も評価せず、全部、大きな円の中に書いていった。
書き終えると、その中にもう一つ、小さな円を描いた。
「では、この中で、あなたが何か働きかけられることはどれでしょう」
彼女は紙を見つめた。
すぐには答えが出なかった。
「母が元の生活に戻れるかどうかは……私には決められません」
「そうですね」
「また倒れないかどうかも、私が決めることはできません」
「はい」
彼女は考えた。
「でも、主治医に今の状態を聞くことはできます」
医師はうなずいた。
「ほかには?」
「退院後に、どんな支援が使えるのか調べること」
「それもできますね」
「母がどうしたいのか、聞くこともできます」
「そうですね」
「家に戻るなら、何が必要なのかを考えることも……」
そこまで言って、彼女は気づいた。
さっきまで同じように見えていた心配の中に、自分にできることと、できないことが混ざっていた。
医師は、小さな円の中に、彼女が今挙げたことを書いていった。
「こうして見ると、どうですか」
彼女は紙を眺めた。
大きな円の中には、気になることがたくさんある。
その全部が、自分で何とかできるわけではない。
けれど、その中には確かに、自分にできることがある。
「違って見えます」
と彼女は言った。
「どんなふうに?」
「全部を考えなきゃいけないと思っていたんです。でも、私が決められないことも、ずいぶんあるんですね」
医師はうなずいた。
「では、今、考えることで何か変えられそうなのは、どちらでしょう」
彼女は小さな円を指した。
「こっちですか」
「そうかもしれませんね」
しばらくして、彼女は言った。
「じゃあ、できないことは考えないようにすればいいんでしょうか」
医師はすぐには答えなかった。
「それが簡単にできれば、もう困っていないでしょうね」
彼女は思わず笑った。
その通りだった。
「気になることは、気になります。自分では決められないとわかっていても、心配になることはあるでしょう」
医師は大きな円を指した。
「ただ、心配になったときに、全部を同じように考え続ける必要はないのかもしれません」
彼女は黙って聞いた。
「考えることで、自分にできることが見つかるなら考えてみる」
医師は小さな円を指した。
「そして、できることが見つかったら、実際にやってみる」
「でも、考えても何も変えられないことだったら?」
彼女が尋ねた。
医師は一呼吸置いた。
「それについては、また別の力が必要になるのかもしれませんね」
彼女はその言葉が気になった。
「別の力?」
「今日はまず、こちらからでいいでしょう」
医師は小さな円を指した。
「今のあなたにできることです」
診察が終わって家に帰ると、彼女は同じように紙に二つの円を描いた。
大きな円に、今気になっていることを書く。
その中に小さな円を描き、自分にできることを書く。
最初はうまく分けられなかった。
母が一人で暮らせるかどうかは、自分には決められない。
でも、退院後の生活について医療者に尋ねることはできる。
母がまた倒れるかどうかも、自分には決められない。
でも、薬や通院について確認することはできる。
母がどうしたいのかを、すべてわかることもできない。
けれど、話を聞くことはできる。
書いていくうちに、ぼんやりしていたものに輪郭がついてきた。
翌日、病院へ行った。
これまでは医師の話を聞きながら、
いつ元に戻るのだろう。
これからどうなるのだろう。
ということばかり考えていた。
その日は違った。
「退院後について、今の段階で考えておいた方がいいことはありますか」
と尋ねた。
主治医は、まだ退院時期は決まっていないが、今後の回復の程度によってはリハビリや生活支援について相談することになると説明した。
すべての答えが出たわけではない。
けれど、彼女はその話をメモした。
母の病室では、
「退院したら、どうしたい?」
と尋ねてみた。
母は考えてから、
「できれば家に帰りたいけどね」
と言った。
以前の彼女なら、その言葉を聞いた瞬間、
家に帰れるのだろうか。
帰れなかったら母は落ち込むのではないか。
自分が支えなければならないのではないか。
と、すぐ先まで考えていただろう。
その日も、心配は浮かんだ。
けれど、そこで立ち止まった。
今、私にできることは何だろう。
そう考えた。
そして、
「そうなんだね」
と母に言った。
「また一緒に考えよう」
それだけにした。
帰り道、不思議なことに気づいた。
母の状態がよくなったわけではない。
未来がわかったわけでもない。
それなのに、気持ちはいくらか軽かった。
頭の中で同じことを何度も考えていたときとは違った。
自分にできることを一つした。
そのことが、彼女を現実の方へ戻してくれたように感じた。
家に帰ると、夫がいた。
「今日はどうだった?」
と聞かれた。
「まだわからないことは多いけど、先生に退院後のことを聞いてきた」
彼女が言うと、夫は、
「そうか」
とうなずいた。
彼女もそれ以上は話さなかった。
夕食のあと、彼女は久しぶりに本を開いた。
何ページか読んだところで、また母のことが浮かんだ。
退院後、本当に大丈夫だろうか。
また考え始めそうになった。
彼女は本から顔を上げた。
そして、自分に尋ねた。
今、このことについて、何かできることはあるだろうか。
明日になれば、病院に確認できることがあるかもしれない。
でも、今夜できることはない。
そう思った。
心配は残っていた。
完全に安心したわけではない。
それでも彼女は、もう一度、本に目を戻した。
しばらくすると、また同じ心配が浮かんだ。
そのたびに、自分に尋ねた。
今、私にできることはあるだろうか。
すぐにうまくできるわけではなかった。
それでも、彼女の中に一つ、新しい問いが生まれていた。
これまでの彼女は、
どうなるのだろう。
と考えていた。
今は少しずつ、
私は、何ができるだろう。
と考え始めていた。
第6章
できることをしても、安心できない
母の状態は、次第に落ち着いてきていた。
会話も前よりはっきりし、食事も取れるようになっていた。
リハビリも始まった。
主治医からは、今後の回復を見ながら退院後の生活を考えていきましょうと言われた。
以前の彼女なら、「いつ退院できるのか」「元の生活に戻れるのか」と何度も尋ねていただろう。
今は、それよりも、今わかっていることを聞くようにしていた。
リハビリではどこまでできているのか。
一人暮らしに戻るためには、何が必要なのか。
退院後に利用できる支援にはどんなものがあるのか。
わからないことをすべて埋めようとするのではなく、今、自分にできることを一つずつ確認する。
そうすると、以前より落ち着いて話を聞けることが増えていた。
母の病室でも、先のことを決めつけずに話を聞くようにした。
「今日はどうだった?」
「昨日より歩けた?」
そんなふうに、その日のことを尋ねる。
母も笑うことが増えていた。
ある日、母が言った。
「もうすぐ家に帰れるかな」
彼女の胸が一瞬ざわついた。
本当に帰れるのだろうか。
一人で大丈夫なのだろうか。
また倒れたらどうしよう。
考えが広がりかけた。
彼女は一呼吸置いた。
「それは、まだ先生と相談しないとわからないね」
そう答えた。
言ってから、この前より落ち着いて話せたような気がした。
帰り道、彼女は思った。
考えすぎないようにするのではなく、自分にできることを考える。
このやり方でいいのかもしれない。
けれど、その夜だった。
布団に入ってしばらくすると、母の言葉が浮かんだ。
「もうすぐ家に帰れるかな」
そこからまた考え始めた。
もし家に帰れなかったら、母は落ち込むだろう。
もし帰れたとしても、一人で暮らすのは危ないかもしれない。
見守りが必要になったら、誰がするのだろう。
自分が毎日通うことになったら、身体はもつのだろうか。
考え始めていることには気づいていた。
彼女は自分に問いかけた。
今、私にできることはあるだろうか。
明日、病院で聞くことはできる。
支援について相談することもできる。
今夜は何もできない。
そこまではわかった。
それなのに、考えは止まらなかった。
もし退院してから転んだら。
もし夜中に何かあったら。
もし自分が電話に気づかなかったら。
もしそのせいで手遅れになったら。
気づいているのに、止められない。
彼女は布団の中でため息をついた。
できることも考えているのに。
どうして、まだこんなに心配なのだろう。
翌朝、寝不足で頭が重かった。
その頃から、彼女は焦りを感じるようになった。
自分にできることをすれば、心配は減っていくと思っていた。
けれど、減る心配もあれば、残る心配もあった。
母の回復が進んでも、その先にはまだわからないことがある。
自分の身体も、生活を整え、処方された薬を飲み、無理をしないようにしている。
それでも、いつどこまでよくなるのかはわからない。
夫の仕事についても、話し合うことはできる。
二人の生活について、一緒に考えることもできる。
けれど、夫がどんな仕事を選ぶのか、その先の生活がどうなるのかまでは、自分には決められない。
彼女は気づき始めていた。
自分にできることをしても、未来がわかるようになるわけではない。
次の診察の日、彼女はいつもより早く診療所へ着いた。
待合室で呼ばれるまでのあいだも、何度も同じことを考えていた。
診察室に入ると、医師はいつものように穏やかに尋ねた。
「その後、どうですか」
「母はよくなってきています」
医師はうなずいた。
「それはよかったですね」
「はい」
彼女は答えたが、表情は晴れなかった。
医師は急かさずに待った。
しばらくして、彼女は言った。
「先生、私、できることはやっているつもりなんです」
「はい」
「病院にも聞いていますし、母とも話していますし、今後のことも調べています」
医師は黙って聞いていた。
「でも、やっぱり安心できないんです」
声が揺れた。
「先生に言われたように、自分にできることを考えているのに、それでも心配になるんです」
医師はしばらく考えてから尋ねた。
「できることをすれば、どうなると思っていましたか」
彼女はすぐには答えられなかった。
「どうなるって……」
考えてみた。
「安心できると思っていました」
「安心できる、というのは?」
彼女はまた考えた。
「大丈夫だと思えるというか……」
そこで言葉が止まった。
医師は待った。
「先のことが、少しはわかるようになると思っていたのかもしれません」
自分で言ってから、彼女ははっとした。
医師は静かに尋ねた。
「できることをすれば、わからないことまでわかるようになると思っていましたか」
彼女は黙った。
その言葉が、胸の奥にゆっくり入ってきた。
「……そうかもしれません」
母の病気について調べる。
主治医に聞く。
支援を探す。
そうしていけば、いつか「もう大丈夫」と思えるところまで行けるような気がしていた。
自分にできることを探す、その奥にも、未来を少しでも確かなものにしたい気持ちがあったのかもしれない。
「でも」
彼女は言った。
「できることをしても、わからないことは残るんですね」
「残ることはありますね」
医師は穏やかに答えた。
その言葉を聞くと、胸の奥が苦しくなった。
「じゃあ、何のためにできることをするんですか」
思わず聞いた。
医師はしばらく考えた。
「未来を確実にするためではなく、今の状況に働きかけるためでしょうか」
彼女は顔を上げた。
それは、あまりにも当たり前のことのように聞こえた。
けれど、彼女にはすぐに飲み込めなかった。
「でも、やっても安心できないんですよね」
医師はうなずいた。
「安心できることもあるでしょう。でも、できることをしたからといって、必ず安心できるとは限りません」
彼女は黙った。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
自分にできることを見つければ、そこから心配は減っていくのだと思っていた。
医師は続けた。
「できることをすることと、未来が確実になることは、別のことです」
彼女はその言葉を頭の中で繰り返した。
できることをする。
未来を確実にする。
自分は、その二つをどこかで同じもののように考えていたのかもしれない。
「じゃあ、わからないことは残るんですか」
彼女は尋ねた。
「そうですね。残ることはあります」
医師は静かに答えた。
不安がこみ上げた。
けれど、その不安の中で、彼女は一つのことに気づいた。
「私は……わからないままなのが嫌なんですね」
医師はうなずいた。
「すごく怖いんです」
「そうなんですね」
医師は否定しなかった。
彼女は長く息を吐いた。
診察が終わり、外へ出た。
空は曇っていた。
雨が降るのかどうか、はっきりしない空だった。
彼女は駅へ向かいながら考えた。
できることをすれば、全部がわかるわけではない。
できることをしても、未来を思い通りにできるわけではない。
それでも、自分にできることはする。
では、そのあとに残るものを、どうすればいいのだろう。
その問いは、今までとは違っていた。
これまでは、
どうすれば未来がわかるのだろう。
と考えていた。
今は、
わからないものが残ったとき、私はどうすればいいのだろう。
と考え始めていた。
第7章
心配することは、大切にすることなのか
母の入院生活は、長くなっていた。
最初の頃のような切迫した感じはなくなり、母自身も病院での生活に慣れてきたようだった。
リハビリから戻った母が、今日は廊下をいつもより長く歩けたと笑って話す日もあった。
そんな母を見ると、彼女もほっとした。
けれど、病院から家に戻ると、その安心は長く続かなかった。
母は、本当に大丈夫なのだろうか。
今日は元気そうだったけれど、無理をしていたのではないだろうか。
自分に心配をかけまいとして、つらいことを言わなかったのではないだろうか。
そんなことを考え始めると、また頭の中から母のことが離れなくなった。
ある日の午後、彼女は久しぶりに本を開いた。
以前から読みたいと思っていた小説だった。
読み始めると、次第に物語の中に入っていった。
気がつくと、一時間近く経っていた。
そのことに気づいた瞬間、胸に妙な罪悪感が浮かんだ。
母が病院にいるのに、私はこんなふうに本を読んでいていいのだろうか。
母は今ごろ、退屈しているかもしれない。
不安になっているかもしれない。
何か困っているかもしれない。
自分だけ好きなことをしていたような気がした。
彼女は本を閉じた。
スマートフォンを確認した。
母からの連絡はなかった。
病院からの着信もない。
何も起きていない。
それでも落ち着かなかった。
母に電話をしようかと思った。
けれど、今ごろはリハビリの時間かもしれない。
電話をして疲れさせたらいけない。
そう思ってやめた。
やめたあとも、気持ちは本に戻らなかった。
夕方、夫が帰ってきた。
「今日はどうしてた?」
と聞かれた。
「家にいた」
「本でも読めた?」
彼女は驚いた。
「少しだけ」
「よかったじゃないか」
夫は何気なくそう言った。
けれど彼女は、素直にうなずけなかった。
「母が入院してるのに、私だけのんびりしてていいのかなって思って」
夫は不思議そうな顔をした。
「お母さんが入院してることと、本を読むことは別じゃない?」
彼女は何も言わなかった。
夫ならそう言うと思っていた。
間違ってはいない。
それでも、自分の中では簡単に分けられなかった。
母が大変なときに、自分が楽しいことをしている。
母のことを忘れている時間がある。
それが、どこか薄情なことのように感じられた。
その夜、布団に入ってからも、そのことを考え続けた。
自分は母に何をしてあげられるのだろう。
もっと病院へ行った方がいいのではないか。
もっと話を聞いた方がいいのではないか。
退院後のことも、もっと調べておいた方がいいのではないか。
できることを考える。
それは、このところ身につけてきたことだった。
けれど、その夜は「できること」を探しているというより、何かをしていなければ申し訳ないような気持ちだった。
何もしていない時間が、母を放っている時間のように思えた。
次の診察で、彼女はそのことを漢方医に話した。
「母のことを考えていないと、悪いことをしているような気がするんです」
医師は黙って聞いていた。
「この間、本を読んでいたんです」
「はい」
「気がついたら一時間くらい経っていて、その間、母のことをほとんど考えていなかったんです」
医師はうなずいた。
「それで、急に申し訳なくなって」
「申し訳ない?」
「母が病院で大変なのに、私は家で本を読んでいたんです」
医師は一呼吸置いて尋ねた。
「あなたが本を読んでいたことで、お母さんが困ったのでしょうか」
「それは……ないと思います」
「では、何が申し訳なかったのでしょう」
彼女は答えられなかった。
何が、と言われるとうまく説明できなかった。
しばらくしてから言った。
「母のことを心配していない自分が嫌だったのかもしれません」
医師はその言葉を確かめるように、
「心配していない自分」
と言った。
彼女はうなずいた。
「母が大変なときくらい、ちゃんと心配していないといけない気がするんです」
そこまで言ったとき、自分でも不思議なことを言っていると思った。
けれど、それが一番近い気がした。
医師は尋ねた。
「心配していると、お母さんを大切にしている感じがしますか」
彼女はすぐには答えなかった。
けれど、胸の中で何かが動いた。
「……そうかもしれません」
医師はそれ以上言わず、待っていた。
彼女は自分の気持ちを探すように続けた。
「心配しなくなったら、母のことをどうでもいいと思っているみたいで」
「なるほど」
「父が亡くなったときも、母はずっと私のことを支えてくれました」
自分から父の話を出したことに、彼女は驚いた。
「何かあれば、いつも話を聞いてくれて」
「はい」
「だから今度は、私が母のことをちゃんと考えなきゃいけないと思うんです」
医師は静かに尋ねた。
「お母さんのことを大切にすることと、お母さんのことを考え続けることは、同じでしょうか」
彼女は黙った。
これまで考えたことのない問いだった。
心配する。
考える。
大切にする。
彼女の中では、それらがいつの間にか重なっていた。
「違うんでしょうか」
彼女が尋ねると、医師は答えを返さなかった。
代わりに尋ねた。
「一日中お母さんのことを心配していた日は、お母さんのために何をしていますか」
彼女は考えた。
頭の中で、母のことを考え続けている日。
悪い可能性を想像する。
どうしたらいいのか考える。
また別の心配が生まれる。
そして疲れる。
「……何もしていないこともあります」
「そうですか」
「ただ、考えているだけで」
医師は責める様子を見せなかった。
「では、お母さんを大切にするために、実際にできることは何でしょう」
彼女は考えた。
「会いに行くこと」
「はい」
「話を聞くこと」
「はい」
「必要なことを一緒に考えること」
医師はうなずいた。
「ほかには?」
彼女はさらに考えた。
「自分の体調を崩さないことも……でしょうか」
「どうしてそう思いましたか」
「私が倒れたら、母も心配すると思うので」
言いながら、彼女は母の顔を思い出した。
病室で母は何度か言っていた。
「毎日来なくてもいいのよ」
「あなたも身体を大事にしなさい」
彼女は、その言葉を聞いても、本当には受け取っていなかった。
母は遠慮しているだけだと思っていた。
けれど、本当に娘の身体を心配していたのかもしれない。
医師が尋ねた。
「お母さんは、あなたが一日中自分のことを心配して苦しんでいると知ったら、どう思うでしょう」
彼女の目に涙が浮かんだ。
答えはすぐにわかった。
「やめなさいって言うと思います」
笑いながら、涙を拭いた。
「そんなに心配しなくていいって」
「いつも、そう言うんですか」
「はい」
彼女はうなずいた。
「昔から」
診察室に沈黙があった。
彼女は母の声を思い出していた。
そんなに先のことまで考えなくても大丈夫よ。
考えすぎても未来はわからないわよ。
自分のこともちゃんとしなさい。
母は何度もそう言っていた。
それなのに、自分は母を大切にするためだと思いながら、母が望まないことを続けていたのかもしれない。
「先生」
彼女は言った。
「心配し続けなくても、大切にはできるんですね」
医師はうなずいた。
「できると思いますよ」
彼女はしばらく考えた。
「でも、心配すること自体が悪いわけではないんですよね」
「もちろんです」
医師は答えた。
「大切な人のことなら、心配になるのは自然なことでしょう」
彼女はその言葉を聞いて、肩の力が抜けた。
心配をなくさなければならないわけではない。
母のことを気にかけてはいけないわけでもない。
医師は続けた。
「ただ、心配することと大切にすることが同じになってしまうと、心配を手放しにくくなることはあるかもしれませんね」
彼女は黙って聞いた。
心配をやめることが、母を見捨てることのように感じていた。
だから、できることがなくなっても、考え続けていたのかもしれない。
診療所からの帰り道、彼女はいつもの書店に立ち寄った。
本棚を眺めていると、いつもの思いが浮かんだ。
母が病院にいるのに、こんなことをしていていいのだろうか。
けれど、そのあとに別の言葉も浮かんだ。
心配し続けることと、大切にすることは同じではない。
彼女は一冊の本を手に取った。
母のことを忘れたわけではなかった。
帰ったら、夜に電話をしようと思った。
明日は病院にも行く。
今、自分にできることはそれでいい。
家に戻り、温かい飲み物をいれ、本を開いた。
しばらくすると、母のことが頭に浮かんだ。
彼女は本を閉じなかった。
母のことを心配する自分もいる。
今、本を読んでいる自分もいる。
どちらかを消さなくてもいいのかもしれない。
その日の夜、母に電話をした。
「今日はどうだった?」
と尋ねると、母は、
「まあまあね」
と答えた。
しばらく話したあと、母が聞いた。
「あなたは何してたの?」
彼女は一瞬迷った。
「本を読んでた」
そう答えた。
「そう」
母の声が明るくなった。
「よかったじゃない」
彼女は黙った。
胸の奥にあったものが緩んだ。
「お母さん」
「何?」
「私、ちゃんと自分のこともするね」
母は笑った。
「そうしなさい」
電話を切ったあとも、母の病気は何も変わっていなかった。
これからのことも、まだわからなかった。
けれど彼女の中で、心配と愛情のあいだに、わずかな隙間ができていた。
大切だから、心配になる。
けれど、大切だからといって、心配し続けなければならないわけではない。
彼女は、そのことを知り始めていた。
第8章
考える力を、智慧に変える
母の入院生活が続く中で、彼女は自分の考え方を振り返るようになっていた。
心配にならなくなったわけではない。
母の体調が悪そうに見えれば、不安になった。
夫の仕事のことを思えば、これからの生活が気になった。
朝から身体が重ければ、このまま治らないのではないかと思うこともあった。
けれど、以前とは違うことがあった。
心配が浮かんだあとに、もう一つの問いが浮かぶようになっていた。
これは、今考えることで何か変えられることだろうか。
その問いが、彼女の中に根づき始めていた。
ある朝、夫の仕事のことが気になった。
夫は以前、
「仕事を変えることも考えてる」
と言っていた。
まだ何も決めていないとも言っていた。
それでも彼女の中では、その言葉がずっと残っていた。
もし本当に仕事を変えたら。
収入が減ったら。
しばらく次の仕事が決まらなかったら。
自分も働かなければならなくなったら。
母のこともある。
この身体で働けるのだろうか。
そして、また同じ考えが浮かんだ。
そもそも夫は、自分が働いていないことを負担に感じているのではないか。
以前なら、そのまま考え続けていただろう。
夫が何を思っているのか。
自分との生活をどう感じているのか。
これから二人がどうなるのか。
考えれば、どこかに答えがあるような気がしていた。
その日は、紙を取り出した。
まず、自分にできることを書いた。
夫が仕事についてどう考えているのか、聞く。
自分が何を心配しているのか、伝える。
二人の生活について、一緒に考える。
必要なら、家計についても確認する。
そこまで書いてから、手が止まった。
夫が仕事を変えるかどうか。
その先の生活がどうなるか。
それは、自分一人では決められない。
彼女は、その二つを紙の外側に書いた。
しばらく眺めていると、もう一つ気づいた。
夫が本当は自分のことをどう思っているのか。
それも、頭の中で考え続けるより、本人に聞いた方がよいことなのかもしれない。
その日の夜、彼女は夫に話しかけた。
「仕事のこと、話してもいい?」
夫はテレビの音を小さくした。
「いいよ」
彼女は少し迷った。
「前に、仕事を変えることも考えてるって言ってたでしょう」
「うん」
「あれから、どうなのかなって」
夫は少し考えた。
「まだ決めてないよ」
「そうなんだ」
そこで終わりそうになった。
けれど、彼女は続けた。
「私、ずっと気になってることがあるの」
夫が彼女を見た。
「何?」
「あなたが仕事を変えたいと思ってるのって、私が働いてないことも関係してる?」
夫は少し驚いたようだった。
「どうしてそう思ったの?」
「私が働いてないから、一人で生活を支えるのが大変なんじゃないかとか」
彼女は手元を見ながら続けた。
「本当は今の仕事を辞めたいのに、私がこんなだから辞められないんじゃないかとか。逆に、もっと収入のいい仕事を探さなきゃいけないと思ってるんじゃないかとか」
夫はしばらく黙っていた。
以前なら、その沈黙だけで、また考え始めていただろう。
やっぱり負担だったのだろうか。
言いにくいだけなのだろうか。
自分を傷つけないように、言葉を選んでいるのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
けれど彼女は、そこで止まった。
「あなたは、どう思ってる?」
夫は彼女を見た。
「どうって?」
「私が勝手に考えるんじゃなくて、ちゃんと聞いておきたいと思って」
夫は腕を組んだ。
しばらくしてから言った。
「生活のことを考えないわけじゃないよ」
彼女は黙って聞いた。
「仕事を変えるなら、収入のことも考えるし、二人の生活のことも考える」
「うん」
「でも、仕事を変えようかなって思ったのは、君が働いてないからじゃないよ」
彼女は顔を上げた。
「前から少し考えてたんだ。今の仕事を、このままずっと続けるのかなって」
「そうだったの?」
「うん」
夫は少し笑った。
「まだ、辞めるって決めたわけでもないけど」
彼女はしばらく黙っていた。
そんなことは知らなかった。
自分は夫の言葉の続きを、自分の頭の中だけでつくっていた。
「私が働いてないこと、負担じゃない?」
思い切って尋ねた。
夫は少し考えてから答えた。
「まったく何も思わないって言ったら嘘になるかもしれない」
彼女の胸が一瞬固くなった。
夫は続けた。
「でも、今は体調が悪いんだから仕方ないだろう。それと、俺がこれからどんな仕事をしたいかは、同じことじゃないよ」
彼女は夫の顔を見た。
安心した、というのとは少し違った。
夫にも夫の考えがある。
生活について思うこともある。
それを自分が全部先回りして決めることはできない。
「言ってくれなかったから」
彼女が言うと、夫は、
「聞かれなかったから」
と言った。
彼女は笑った。
夫も笑った。
これまで自分は、夫の気持ちまで自分の頭の中で考えていたのだ。
けれど、聞けることは聞けばいい。
話せることは話せばいい。
それも、自分にできることだった。
だからといって、夫が転職するかどうかが決まったわけではない。
二人の生活がどうなるのかも、まだわからない。
それでも、わからないものの中に、自分が考えるべきことと、考えても決められないことがある。
その違いが、少しずつ見えるようになってきた。
自分の体調についても、同じだった。
朝起きて身体が重いと、このままずっと治らないのではないかと考える癖は残っていた。
けれど、そのあとで、
今日、できることは何だろう。
と考えるようになった。
無理をしない。
休む。
食べられるものを食べる。
薬を飲む。
必要なら受診する。
今日できることは、そのくらいだった。
それ以上考えても、今日の身体が急によくなるわけではない。
そう思える日が増えていた。
次の漢方診療所の診察で、彼女はそのことを話した。
「先生、最近、前より考えなくなったわけじゃないんです」
医師はいつものように静かに聞いていた。
「でも、考え方が変わってきた気がします」
「どんなふうにですか」
彼女は考えた。
「前は、答えが出るまで考えていたんです」
「はい」
「というより、答えが出るはずだと思っていたのかもしれません」
医師はうなずいた。
「母のことも、夫の仕事のことも、自分の体調のことも、ちゃんと考えれば正しい答えが見つかると思っていました」
彼女は、自分の言葉を確かめながら続けた。
「でも最近は、これは考えれば何かできることなのかって、先に考えるようになりました」
「そうですか」
「できることなら考える。できることが見つかったら、やってみる」
「はい」
「夫の気持ちみたいに、聞けることなら聞いてみる」
医師はうなずいた。
「でも、自分には決められないことまで考えていると気づいたら、そこで止まろうとする」
彼女は付け加えた。
「まだ何度も戻っちゃいますけど」
医師は笑った。
「それでいいのではないでしょうか」
彼女も笑った。
「先生、これって、結局、考えすぎないようにしているだけなんでしょうか」
医師はすぐには答えなかった。
しばらくしてから言った。
「私は、少し違うように思います」
「違う?」
「考える力を使わなくなったのではなく、使う場所を選ぶようになってきたのではないでしょうか」
彼女は黙って聞いた。
医師は続けた。
「何を考えるのか。何が自分にできるのか。そして、どこから先は自分には決められないのか」
彼女は、これまでの自分を思い出していた。
仕事で何度も確認していたこと。
家に帰ってからも考えていたこと。
体調を崩してから、自分の身体について考え続けたこと。
母が倒れてから、まだ起きてもいないことを次々に思い描いていたこと。
夫が何を思っているのかまで、自分の中で考えていたこと。
考える力そのものが悪かったわけではない。
ただ、その力をどこまでも使い続けていた。
医師が言った。
「そういう見極める力を、智慧と呼んでもいいのかもしれませんね」
彼女は顔を上げた。
「智慧、ですか」
「はい」
「でも、智慧って、もっと立派な人が持っているものじゃないですか」
医師は笑った。
「そうでしょうか」
彼女も笑った。
しばらく考えてから、彼女は言った。
「考えるのをやめるんじゃなくて、考えるところを選ぶんですね」
「そうですね」
医師はそれ以上説明しなかった。
その日の帰り道、彼女は「智慧」という言葉を思い出していた。
今まで、自分の考える力は、自分を苦しめるものになってしまったように感じていた。
けれど、考えることそのものをやめなくてもいいのかもしれない。
使うところを選ぶ。
その日の夕方、母から電話があった。
「今日ね、歩く練習で距離が伸びたの」
声が前より明るかった。
「そうなんだ。よかったね」
彼女は素直にそう言えた。
電話を切ったあと、
このまま順調に回復するだろうか。
という心配が浮かんだ。
その先まで考え始めそうになった。
けれど、立ち止まった。
今日、母が歩けた。
今わかっているのは、それだけだ。
彼女は夕食の支度を始めた。
途中で疲れたので、椅子に座って休んだ。
こんなことで、この先大丈夫だろうか。
また考えが浮かんだ。
今日は休めばいい。
そう思った。
未来の自分まで、今ここで決める必要はない。
しばらく座り、身体が楽になってから、また台所に立った。
誰かが見ても、何も変わっていないように見えただろう。
母のこれからにも、夫の仕事にも、自分の身体にも、まだわからないことが残っている。
けれど彼女の中では、考えることの意味が変わり始めていた。
以前は、考えることで未来を確かなものにしようとしていた。
今は、考えることで、今の自分にできることを見つけようとしていた。
その先には、まだ自分には決められないことが残っていた。
第9章
それでも、わからない
母の退院が、少しずつ現実のものになってきた。
リハビリは順調に進み、病棟の中なら一人で歩ける時間も増えていた。
主治医からも、
「そろそろ退院後の生活について、具体的に考えていきましょう」
と言われた。
以前の彼女なら、その言葉を聞いた瞬間に、いくつもの心配を思い浮かべていただろう。
本当に家へ帰って大丈夫なのだろうか。
また倒れたらどうしよう。
一人で暮らせなくなったら。
自分が毎日通わなければならなくなったら。
心配は今も浮かんだ。
けれど、そのあとに、
今、考えることで何ができるだろう。
と自分に尋ねられるようになっていた。
病院の相談員に、退院後に使える支援について聞いた。
母の家にも行き、転びそうな場所がないかを見た。
玄関の段差。
浴室。
廊下。
夜中にトイレへ行くときの動線。
必要なものを一つずつ確認した。
母にも聞いた。
「家に戻ったら、何が一番心配?」
母は考えてから言った。
「夜かな」
「夜?」
「また何かあったらと思うとね」
その言葉を聞くと、彼女の胸にも不安が広がった。
母も同じことを心配している。
だからこそ、自分がもっとしっかりしなければならない。
そう考えかけて、立ち止まった。
「じゃあ、夜に何かあったときのことを相談してみようか」
それだけを言った。
自分一人ですべてを背負わなくてもいい。
使える支援を調べる。
病院の人に相談する。
母と一緒に考える。
できることはある。
そのやり方は、彼女の中に馴染み始めていた。
けれど、すべてが楽になったわけではなかった。
いくら準備をしても、母がもう一度倒れないとは言えない。
家の中を整えても、転ばないとは限らない。
支援を用意しても、この先ずっと一人で暮らせるかどうかはわからない。
準備をするほど、
それでもわからないことがある。
という事実も、はっきり見えてきた。
夫の仕事についても、自分の身体についても同じだった。
夫と話すことはできる。
二人の生活について一緒に考えることもできる。
自分の身体についても、今できることは以前よりわかるようになった。
けれど、その先がどうなるのかまでは決められない。
ある夜、彼女は布団の中でそのことを考えていた。
以前のように、心配が次々に枝分かれしているわけではなかった。
今考えていることの多くが、自分には決められないことだともわかっていた。
それなのに、不安は残っていた。
暗い天井を見ながら思った。
私は、前より考え方が変わったはずなのに。
それでも、どうしてまだこんなに不安なのだろう。
しばらくして、一つの言葉が浮かんだ。
わからないからだ。
結局、そこなのだと思った。
次の診察の日、彼女はそのことを漢方医に話した。
「母の退院が決まりそうなんです」
医師はうなずいた。
「そうですか」
「まだ日付までは決まってないんですけど、家に帰る方向で考えていて」
「はい」
彼女は、退院後の支援について相談したことや、母の家を見に行ったことを話した。
「前だったら、もっと混乱していたと思います」
「今はどうですか」
「心配はします。でも、まずできることを考えるようにはなりました」
医師はうなずいた。
「それで、できることはやっています」
「そうですか」
彼女はそこで黙った。
医師は急かさなかった。
やがて彼女は言った。
「でも、先生」
「はい」
「結局、わからないことは残るんですね」
医師は一呼吸置いて答えた。
「残りますね」
その言葉が、前よりはっきり胸に入ってきた。
「母がまた倒れるかどうかも」
「はい」
「夫が仕事を変えるのか、そのあと二人の生活がどうなるのかも」
医師は黙って聞いていた。
「ちゃんと考えて、できることをしても、わからないものは、わからないままなんですね」
「そういうことはありますね」
穏やかな言い方だった。
けれど、彼女の胸には重く響いた。
「それが、やっぱり怖いです」
彼女は正直に言った。
医師はすぐに励まさなかった。
「怖いでしょうね」
とだけ言った。
彼女は黙っていた。
怖いものは、怖い。
ここまで考え方が変わっても、それだけは消えていなかった。
しばらく沈黙があった。
彼女は机を見つめながら、自分にはできることと、決められないことを見分けるようになってきたことを思った。
それでも、未来がわかるわけではない。
「では、どうしたらいいんでしょう」
医師はすぐには答えなかった。
窓の外から、車が通る音が聞こえた。
しばらくして、医師が言った。
「未来がわからないということ自体は、なくせないのかもしれませんね」
彼女はうなずいた。
それは、もうわかっていた。
でも、その先を知りたかった。
医師は続けた。
「ただ」
一呼吸置いた。
「わからないということは、まだ決まっていないということでもありますね」
彼女は顔を上げた。
「まだ、決まっていない」
「はい」
彼女はその言葉を心の中で繰り返した。
未来は、まだ決まっていない。
当たり前のことのようにも思えた。
けれど、なぜか引っかかった。
「でも、決まっていないから、不安なんじゃないですか」
医師は静かにうなずいた。
「そうですね」
彼女は拍子抜けした。
何か別の説明が返ってくると思っていた。
けれど、医師はそれ以上何も言わなかった。
「何だか、よくわからないです」
彼女が言うと、医師は笑った。
「そうですか」
診察が終わり、彼女は外へ出た。
空は明るかったが、雲が多かった。
雨が降るのかどうか、よくわからない空だった。
駅へ向かいながら、さっきの言葉を思い返した。
わからないということは、まだ決まっていないということでもある。
これまで彼女にとって、未来が決まっていないことは、ほとんど不安と同じ意味だった。
決まっていないから、何が起こるかわからない。
だから、先まで考えておきたくなる。
悪いことに備えておきたくなる。
けれど医師は、
まだ決まっていない。
という言葉を、どこか違う意味で使ったように感じた。
何が違うのだろう。
彼女には、まだわからなかった。
駅の近くまで来ると、小さな書店の前を通った。
以前にも何度か立ち寄ったことのある店だった。
入口の横には、新刊や話題の本が並んでいた。
彼女は一度通り過ぎかけた。
けれど、ふと足を止めた。
今日は身体もいくらか楽だった。
急いで帰る必要もない。
見ていこう。
そう思って店の中へ入った。
本棚の間をゆっくり歩いた。
小説。
エッセイ。
写真集。
詩集。
何冊か手に取っては戻した。
その中に、一冊の詩画集があった。
彼女は何となくその本を手に取った。
ページを開くと、のびやかな手書きの文字と、やわらかな色合いの絵が目に入った。
何枚か、ゆっくりとページをめくった。
まだ、その一冊が、自分の中に残った言葉とつながることになるとは知らなかった。
第10章
まだ、決まっていない
彼女は、その詩画集をしばらく立ったまま眺めていた。
のびやかな手書きの文字のそばに、花や山、人の姿を描いた、やわらかな色合いの絵が添えられている。
何枚かめくっているうちに、巻末にある作者の紹介が目に入った。
農業をしていた男性だった。
四十五歳のとき、作業中の事故で両手を失った。
彼女の指が、そこで止まった。
もう一度、前のページへ戻った。
先ほど見ていた文字と絵を見つめる。
この人が描いたのだろうか。
両手を失ったあと、詩を書くようになり、やがて絵も描くようになったという。
彼女には、うまく想像できなかった。
両手を失う。
昨日までできていたことが、突然できなくなる。
その先に、詩を書いたり、絵を描いたりする人生がある。
どうして、そんなことができたのだろう。
彼女はもう一度、最初から何枚かページをめくった。
そして、その本を買うことにした。
家に帰ると、買ってきた詩画集をテーブルの上に置いた。
夕食の支度をしているあいだも、何となく気になった。
夫が帰ってきて、一緒に食事をしたあと、彼女は温かい飲み物をいれ、本を開いた。
昼間よりもゆっくり読んだ。
のびやかな文字。
やわらかな色合いの絵。
そこに書かれている言葉を読みながら、ときどき作者のことを考えた。
事故に遭ったとき、この人は何を思ったのだろう。
そう考えかけて、彼女は本を閉じた。
それは、自分にはわからない。
どれほど怖かったのか。
どれほど苦しかったのか。
簡単に想像できるようなことではない。
自分の経験と重ねることにも、違和感があった。
私は両手を失ったわけではない。
この人と同じように生きられるとも思わない。
それでも、なぜか気になった。
数日後、彼女はもう一度その書店に立ち寄った。
母の退院に必要なものを買った帰りだった。
入口近くの掲示板に、一枚の案内が貼られていた。
見覚えのある名前が目に入った。
あの詩画集の作者だった。
近くの市民ホールで、講演会が開かれるらしい。
日にちを見ると、次の日曜日だった。
彼女は立ち止まった。
行ってみたい。
そう思った。
けれど、すぐに別の考えも浮かんだ。
人が多いかもしれない。
長い時間座っていられるだろうか。
途中で具合が悪くなったらどうしよう。
めまいが出たら。
帰れなくなったら。
そこまで考えて、気づいた。
また先まで考えている。
彼女は案内をもう一度見た。
会場は家からそれほど遠くない。
当日の朝、体調を見て決めればいい。
疲れたら途中で帰ってもいい。
出口に近い席に座ればいい。
それ以上のことは、そのとき考えればいい。
彼女はスマートフォンで日時を確認した。
行けるかどうかは、まだわからない。
それでも、
行ってみたい。
その気持ちは残った。
日曜日の朝、目を覚ますと、身体はそれほど重くなかった。
朝食を食べても、めまいはなかった。
彼女は支度をした。
家を出る前に、一瞬迷った。
本当に大丈夫だろうか。
いつもの考えが浮かんだ。
彼女は玄関で立ち止まった。
今、できることはしている。
あとは、行ってみよう。
そう思って扉を開けた。
会場には、思っていたより多くの人がいた。
彼女は後ろの方の、通路に近い席を選んだ。
いつでも外へ出られる。
それだけで安心した。
しばらくすると、一人の男性が壇上に現れた。
詩画集で写真を見ていたので、すぐにわかった。
両腕の先には、手がなかった。
その姿を見たとき、彼女はあらためて、あの文字と絵を思い出した。
講演では、これまでの人生について話があった。
農業をしていたこと。
働き盛りの頃に事故に遭い、両手を失ったこと。
その後、詩を書くようになり、工夫をしながら絵も描くようになったこと。
やがて、その作品を多くの人が見るようになったこと。
彼女は黙って聞いていた。
悲しい話もあった。
思わず笑ってしまうような話もあった。
けれど彼女が強く心を動かされたのは、困難を乗り越えたということだけではなかった。
話を聞いているうちに、一つのことが気になり始めた。
この人は、事故に遭った日に、その後の人生を知っていたのだろうか。
もちろん、知っていたはずはない。
両手を失ったそのときに、
これから詩を書くことも、
絵を描くことも、
自分の作品を誰かが手に取ることも、
たくさんの人の前で自分の経験を話すことも、
知っていたはずはない。
今、彼女が座っているこの会場のことも知らなかった。
そのとき、診察室で聞いた言葉が浮かんだ。
まだ、決まっていない。
彼女は壇上の男性を見つめた。
あのときは、よくわからなかった。
未来が決まっていないからこそ、不安なのではないかと思った。
何が起こるかわからない。
だから怖い。
その考えは、今も変わっていない。
この人だって、事故のあと、どんな人生になるかわからなかったはずだ。
けれど、彼女はふと思った。
わからなかったのは、悪いことだけではなかったのではないか。
詩を書くことも。
絵を描くことも。
誰かと出会うことも。
そのときには、まだ見えていなかった。
事故がよかったのだとは思わなかった。
両手を失うことに意味があった、と簡単に言うこともできない。
起きなければよかったことも、人生にはある。
失ったものが戻らないこともある。
それでも、その出来事が起きた時点で、その先の人生のすべてが決まっていたわけではない。
彼女は、これまでの自分を思った。
わからない未来の中から、悪い可能性ばかりを探していた。
母がまた倒れるかもしれない。
夫が仕事を変えたら、二人の暮らしがうまくいかなくなるかもしれない。
身体が元に戻らないかもしれない。
どれも、起こるかもしれない。
だから怖かった。
だから考えてきた。
けれど、まだ起きていないということは、悪い未来だけが決まっているわけでもない。
彼女はそこで考えるのをやめた。
よい未来を思い描いて安心しようとしているのではない。
ただ、今の自分には見えていないものまで、すべて悪い方に決めてしまう必要はないのかもしれない。
講演が終わり、会場を出ると、外はまだ明るかった。
疲れはあった。
けれど、来たことを後悔してはいなかった。
駅まで歩きながら、彼女は周りを見た。
親子が歩いている。
自転車が通り過ぎる。
店の前で誰かが笑っている。
いつもと変わらない日曜日の午後だった。
未来は、わからない。
その事実は何も変わっていない。
怖さもなくなってはいない。
けれど、
まだ、決まっていない。
という言葉は、前とは少し違って聞こえた。
何が違うのか、まだうまく説明はできなかった。
家に着くと、夫がテレビを見ていた。
「どうだった?」
と聞いた。
彼女はバッグを置いた。
「行ってよかった」
「そう」
夫はそれ以上聞かなかった。
彼女も、すぐには説明しなかった。
まだ、自分でもうまく言葉にできなかった。
夕食のあと、母から電話があった。
「退院の日、来週になりそうよ」
母の声は明るかった。
「そうなんだ」
彼女も笑った。
その直後、
家に帰って本当に大丈夫だろうか。
という心配が浮かんだ。
一人でいるときに、また倒れたら。
夜中に何かあったら。
考えは、その先へ進みかけた。
彼女は気づいた。
母が帰ってくるまでに確認できることは、まだいくつかある。
それは明日、病院に聞けばいい。
今夜できることはない。
そこまで考えて、電話の向こうの母に言った。
「よかったね。帰ってきたら、何食べたい?」
母は考えた。
「お刺身かな」
彼女は笑った。
「じゃあ、買っておく」
電話を切ったあと、彼女は詩画集を手に取った。
何枚かページをめくる。
あの人のように生きられるとは思わない。
自分も何か大きなことをしなければならないとも思わない。
ただ、自分の未来にも、今はまだ見えていないことがあるのかもしれない。
心配がなくなったわけではなかった。
何が起こるかも、やはりわからない。
彼女は詩画集を閉じた。
まだ、決まっていない。
その言葉を思ったとき、以前とは違って、その先にわずかな余白があるように感じた。
何があるのかは、まだ見えない。
それでも彼女は、少しだけ、この先を見てみたいと思った。
終章
心配は、なくならない
母が退院してから、しばらく経った。
母は以前とまったく同じ生活に戻ったわけではなかった。
定期的に病院へ通い、家では無理をしないようにしていた。
必要なときには、人の手も借りていた。
それでも、自分で食事を作り、洗濯をし、近所まで買い物に出ることも増えていた。
彼女も、ときどき母の家へ行った。
けれど、毎日ではなかった。
電話で話すだけの日もあった。
今日は何を食べたのか。
よく眠れたのか。
散歩には行ったのか。
そんな話をした。
ある日の夕方、彼女は母に電話をかけた。
呼び出し音が続いた。
出ない。
胸の奥がざわついた。
何かあったのではないか。
また倒れたのではないか。
その考えが浮かんだ瞬間、身体に力が入った。
もう一度電話をかけた。
やはり出ない。
以前なら、そこから先を考え始めていただろう。
救急車で運ばれているのではないか。
誰にも気づかれずに倒れているのではないか。
また入院することになったら。
今度こそ一人暮らしができなくなったら。
けれど彼女は、スマートフォンを握ったまま、自分に尋ねた。
今、私にできることは何だろう。
もう一度、時間を置いて電話をすることはできる。
それでも出なければ、近くに住む人に連絡することもできる。
必要なら、自分が行くこともできる。
そこまで考えたところで、スマートフォンが鳴った。
母だった。
「もしもし?」
「どうしたの。電話くれた?」
いつもの声だった。
「出なかったから、ちょっと心配して」
「ああ、ごめん。お風呂に入ってたの」
彼女は息を吐いた。
「そうだったの」
「何よ。そんなに心配しなくても大丈夫よ」
昔から何度も聞いてきた言葉だった。
彼女は笑った。
「うん。でも、ちょっとは心配するよ」
母も笑った。
電話を切ったあと、彼女はしばらくスマートフォンを見ていた。
心配しなかったわけではない。
母が電話に出ないだけで、今でも胸はざわつく。
最悪のことが浮かぶこともある。
それでも、その先をどこまでも追いかけなくなった。
心配がなくなったのではない。
心配の中に、以前ほど長く居続けなくなったのだ。
彼女自身の身体にも、まだ波があった。
朝から身体が軽く、買い物に出かけられる日がある。
長く歩ける日もある。
本を読んでいて、気がつくと一時間経っていることも増えた。
けれど、朝起きた瞬間から身体が重い日もあった。
めまいがする日もあった。
そんな日には、やはり不安がよぎった。
また悪くなるのではないか。
けれど、その不安が浮かぶことと、その先を考え続けることは、同じではなかった。
今日は休もう。
薬を飲もう。
食べられるものを食べよう。
必要なら診てもらおう。
楽になったら、外の空気を吸いに行こう。
今できることは、そのくらいだった。
以前の彼女なら、それでは足りないと思ったかもしれない。
この先どうなるのかまで知りたかった。
いつよくなるのか。
どこまでよくなるのか。
以前の自分に戻れるのか。
けれど今は、今日の身体と付き合うことができれば、それでいいと思える日が増えていた。
夫の仕事のことも、まだ決まっていなかった。
すぐに会社を辞めるつもりはないらしい。
それでも、ときどき求人を見たり、仕事を変えた知人から話を聞いたりしていた。
ある夜、夫が言った。
「来週、仕事を変えた知り合いに会ってくる」
「仕事の話?」
「うん。今の働き方とか、ちょっと話を聞いてみようと思って」
彼女の頭に、
それって、転職するということなのだろうか。
という考えが浮かんだ。
その先に、収入のことや、自分が働くことや、これからの暮らしまで続きそうになった。
けれど、夫はまだ、話を聞きに行くと言っただけだった。
「どんな仕事なの?」
彼女は尋ねた。
夫は、知人から聞いていることを少し話した。
彼女はその話を聞いた。
「帰ってきたら、どうだったか教えて」
「うん」
それだけだった。
夫が仕事を変えるのか。
変えるとしたら、いつなのか。
その先、二人の暮らしがどうなるのか。
まだ何も決まっていなかった。
今は、それでよかった。
ある日、彼女はいつもの漢方診療所を訪れた。
診察室に入ると、医師はいつものように尋ねた。
「その後、どうですか」
「母は、だいぶ家での生活に慣れてきました」
「そうですか」
「私も、前よりは動ける日が増えました」
医師はうなずいた。
彼女は最近のことを話した。
眠れる日が増えたこと。
まだ疲れやすいこと。
めまいにも波があること。
夫の仕事のことは、まだ何も決まっていないこと。
医師はいつものように話を聞き、身体の状態を診た。
診察がひと通り終わったあと、彼女は言った。
「先生」
「はい」
「私、今でもすぐ心配になります」
医師は笑った。
「そうですか」
彼女も笑った。
「そこは、あんまり変わってないかもしれません」
医師は何も言わずに待っていた。
彼女は考えてから続けた。
「でも、前とは違うんです」
「どんなふうにですか」
「今も、わからないのは怖いです」
「はい」
「でも、ときどき、まだ決まっていないんだと思えるようになりました」
医師は彼女を見た。
「前は、わからないと、悪いことばかり考えていたんです」
彼女は続けた。
「今は、まだ知らないことまで、先に悪い方へ決めなくてもいいのかなって」
医師はゆっくりうなずいた。
「そうですか」
それだけだった。
彼女は、それで十分だと思った。
以前なら、
それで合っているのか。
本当にそれで大丈夫なのか。
もう少し何か教えてほしい。
そう思ったかもしれない。
今は、自分が感じていることを、そのまま自分の中に置いておくことができた。
診療所を出ると、午後の日差しがまぶしかった。
帰りにスーパーへ寄った。
野菜を見ながら、夕食のことを考えた。
夫は魚が食べたいと言っていた。
母にも何か買っていこうかと思ったが、今日は行く予定ではなかった。
また今度でいい。
トマトと葉物野菜をかごに入れた。
魚売り場で迷い、一切れ多く買った。
明日の昼にも食べられる。
会計を済ませて外へ出ると、風が冷たかった。
空には雲が広がっていた。
明日は雨になるかもしれない。
散歩はできないかもしれない。
そのときは、家で本を読もう。
晴れたら、歩けばいい。
明日になってから決めればいい。
家に帰ると、夫はまだ帰っていなかった。
彼女は夕食の下ごしらえをした。
途中で疲れたので、椅子に座った。
温かいお茶をいれた。
休んでいると、身体が楽になった。
また立ち上がり、続きをした。
夫が帰ってきて、二人で夕食を食べた。
テレビを見ながら、とりとめのない話をした。
母からメッセージが届いた。
今日は近所まで買い物に行ったらしい。
彼女は、
「よかったね。でも無理しないでね」
と返した。
また倒れたら、という考えが一瞬浮かんだ。
けれど、それ以上、今は考えないことにした。
夜になり、彼女は寝室へ行った。
枕元には、一冊の小説が置いてあった。
少し前から読んでいる本だった。
布団に入り、本を開いた。
何ページか読む。
物語の中の人物が、思いがけない出来事に出会っていた。
この先どうなるのだろう。
彼女はそう思った。
けれど、結末を早く知りたいとは思わなかった。
ページをめくりながら、その先を楽しみにしている自分がいた。
しばらく読んでから、時計を見た。
もう遅い。
彼女は栞を挟んだ。
まだ半分ほど残っている。
この先、物語がどうなるのかは知らない。
明日のことも、わからない。
母のこと。
自分の身体のこと。
夫とのこれからの生活。
そのどれにも、まだ答えは出ていなかった。
これからも、心配することはあるだろう。
怖くなることもあるだろう。
考え始めてしまう夜も、きっとある。
彼女は本を閉じた。
灯りを消した。
暗くなった部屋で、明日のことが少し頭に浮かんだ。
何が起こるかは、わからない。
それでも以前のように、そのすべてを今夜のうちに知りたいとは思わなかった。
明日になったら、また続きを読もう。
そう思って、彼女は目を閉じた。
奥付
わからないまま、生きていく
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