身体の不調は「弱い声の自分」からのメッセージかもしれない

はじめに
休んだほうがいい。
そう分かっていても、無理を重ねてしまうことがあります。
これ以上は負担が大きい。
そう感じていても、そのまま動き続けてしまうことがあります。
本当はつらい。
本当は少し立ち止まりたい。
けれども、その感覚を十分に受けとめないまま、日々をやり過ごしてしまう。
そのようなことは、誰にでも起こりえます。
そして、その積み重ねのなかで、疲労感が抜けない、眠りが浅い、胃腸の調子が整わない、肩や頭の重さが続くといったかたちで、身体の不調が現れてくることがあります。
もちろん、身体の不調には、まず医学的な評価が必要です。
器質的疾患を含め、身体症状を身体の問題として適切に捉えることは、医療の大前提です。
その前提を欠いたまま、症状を安易に心理的意味へ回収することは慎まなければなりません。
その一方で、臨床では、診断名や検査所見だけでは十分に捉えきれない苦痛に出会うことがあります。
明確な異常は見出しにくいにもかかわらず、本人にはたしかな不調があり、その背景には、生活の無理や感情の抑制、言葉にならない葛藤が重なっているように見える。
そのような場面は、決して少なくありません。
こうしたとき、私たちの内側で動いているものは、単一の意思や単純な判断だけではないのかもしれません。
心の中には、いろいろな自分がいる
私たちはふだん、自分を一つのまとまった存在として理解しています。
それは日常を生きるうえで自然な見方ですが、実際の内面は、必ずしもそれほど単純ではありません。
人の心の中には、しばしば複数の方向性が併存しています。
頑張りたい自分。
休みたい自分。
人の期待に応えたい自分。
もうこれ以上は耐えられないと感じている自分。
迷惑をかけたくない自分。
本当は助けを求めたい自分。
ここでいう「複数の自分」とは、人格が分裂しているという意味ではありません。
一人の人間の内部に、異なる欲求、価値、感情、行動傾向が同時に存在しているということです。
私たちが葛藤するのは、この複数性があるからです。
休みたいと思いながら休めない。
断りたいと思いながら断れない。
つらいと感じながら、それを認めることができない。
その背後には、一つの自己の矛盾というより、内面に併存する複数の方向性のせめぎ合いがあると考えたほうが、実感に近いことがあります。
前に出る声と、後ろに退く声
ただし、そうした複数の声は、同じ強さで意識に現れるわけではありません。
前に出やすい声があります。
日々の判断や行動を主導しやすい声があります。
たとえば、
もっと頑張るべきだ。
ここで弱音を吐いてはいけない。
人に迷惑をかけてはいけない。
きちんとしていなければならない。
こうした声は、社会生活のなかでは一定の適応性を持っています。
そのため、意識の表面に現れやすく、本人にとっても「自分の意思」として認識されやすくなります。
一方で、後ろに退きやすい声もあります。
疲れている。
怖い。
悲しい。
傷ついている。
本当は嫌だ。
少し休みたい。
分かってほしい。
これらの声は、存在しないのではありません。
ただ、前に出にくいのです。
長く後回しにされるうちに、本人の意識のなかでも輪郭を持ちにくくなっていることがあります。
その結果、私たちは、前面に出ている強い声だけを「自分そのもの」と見なしやすくなります。
けれども実際には、そこに表れていない側面もまた、たしかに自分の一部です。
弱い声は、なぜ言葉になりにくいのか
後ろに退いた声は、存在しないのではなく、意識の前景に現れにくい。
そのため、本人にもつかまえにくく、言語化されにくいという特徴を持ちます。
人は、自ら十分に意識化できていない体験については、明瞭に語ることができません。
したがって、内的な苦痛は、必ずしもはっきりした感情語として現れるとは限りません。
むしろ、説明しがたい違和感、重さ、落ち着かなさ、漠然とした不調感として経験されることがあります。
臨床の場でも、患者さんが「何がつらいのか、自分でもよく分からない」「うまく言えないけれど、ずっとしんどい」と語ることがあります。
そこでは、苦痛が存在しないのではなく、それがまだ十分に言葉になっていないのです。
とくに、長く我慢してきた感情や、繰り返し抑え込まれてきた感覚は、言語化の回路に乗りにくくなります。
「大丈夫」と言い続けているうちに、本当は何がつらかったのかが見えなくなる。
「こんなことで弱音を吐いてはいけない」と思ううちに、どこで無理が生じているのかが分からなくなる。
そのようにして、弱い声は消えたのではなく、言葉にならないまま、内側にとどまり続けることがあります。
身体の不調は、その声の表れかもしれない
身体症状は、多因子的に生じます。
器質的要因、機能的要因、生活習慣、対人関係、心理社会的背景など、さまざまな層が重なり合って現れてきます。
したがって、不調を直ちに「心の問題」と解釈することは適切ではありません。
その一方で、医学的評価だけでは捉えきれない苦痛の背景に、言語化されていない内的葛藤や、十分に意識化されていない感情が関わっていることは、臨床上しばしば経験されます。
疲れが抜けない。
朝から身体が重い。
眠りが浅い。
息が詰まるように感じる。
胃腸が落ち着かない。
頭痛や肩こりが続く。
検査では大きな異常が見つからなくても、本人の苦しさは現実に存在しています。
そして、そのような不調の一部は、まだ十分に聴かれていない内的体験が、身体を通して表現されている可能性があります。
身体の不調を「メッセージ」と呼ぶのは、症状に単純な象徴的意味を与えるためではありません。
そうではなく、まだ十分に言葉になっていない自己の一側面に気づくための手がかりとして受けとめる、ということです。
身体は単に生理学的変化の場であるだけでなく、言葉にならない体験が現れてくる場でもあります。
弱い声の自分が、直接には「つらい」「限界だ」と言えないとき、身体の不調というかたちで存在を知らせてくることがある。
そのように理解できる場面があるのです。
不調は、排除すべき敵であるだけではない
症状があるなら、それを軽くしたいと思うのは当然です。
苦痛は和らいだほうがよいし、必要な治療や生活調整はきわめて重要です。
このことに異論はありません。
しかし、不調をただ除去すべき対象としてのみ扱っていると、その背景にあるものが見えなくなることがあります。
身体は、単に壊れていることを知らせるだけではありません。
無理が続いていること。
ある感情が長く顧みられていないこと。
自分の内側で、何らかのズレが広がっていること。
そうしたことを、身体を通して示している場合があります。
未病の段階では、異常はまだ明確な疾患として定義されません。
だからこそ、数値や診断名だけでは捉えきれない違和感や苦痛を、どのように受けとめるかが重要になります。
そのとき、不調を、まだ十分に言葉になっていない内的体験への入口としてみる視点には、一定の臨床的意義があるように思われます。
症状を軽減することと、その意味に耳を傾けることは、対立する営みではありません。
むしろ両者は、互いを補い合う可能性があります。
弱い声の自分に気づくための問い
では、そうした弱い声に気づくためには、何が助けになるのでしょうか。
まず大切なのは、拙速に結論を求めないことです。
言葉になりにくい体験は、急いで整理しようとすると、かえって見えなくなることがあります。
必要なのは、正しく解釈すること以上に、まず注意深く聴こうとする姿勢かもしれません。
たとえば、次のような問いは、一つの入口になります。
最近、無理を引き受けていたのは、どの自分だったのだろうか。
本当は何を負担に感じていたのだろうか。
どの気持ちを、後回しにしてきたのだろうか。
きちんとしている自分の背後で、何が沈黙していたのだろうか。
この不調は、何を知らせようとしているのだろうか。
これらの問いに、すぐに明確な答えが出る必要はありません。
むしろ答えが出ないままでも、その問いを持ち続けること自体に意味があるのです。
弱い声は、問い詰めるとさらに奥へ引いてしまうことがあります。
けれども、静かに待つことで、少しずつ輪郭を現してくるものなのかもしれません。
おわりに
私たちは、単一の声だけで生きているわけではありません。
内面には複数の方向性があり、その中には前に出やすいものもあれば、後ろに退きやすいものもあります。
後ろに退いた声は、見えにくく、言葉にもなりにくい。
だからこそ、ときに身体を通して、その存在を知らせてくるのかもしれません。
もしそうであれば、身体の不調は、単なる故障や偶発的な不快としてだけではなく、まだ十分に聴かれていない自己の一側面に出会い直す入口として理解できる場合があります。
そのことは、症状を心理に還元することではありません。
むしろ、身体を身体として丁寧に診ることに加えて、そこに現れている体験の意味にも注意を向ける、ということです。
不調の背後に、どのような声があるのか。
どの自分が前面に立ち、どの自分が長く沈黙していたのか。
そうしたことを見つめていく営みは、自分を責めるためではなく、自分をより深く理解するための営みです。
身体の不調は、ただ取り除くべきものとしてだけではなく、まだ言葉になっていない自分に気づくための入口として現れていることがある。
そのように受けとめ直すことは、不調の見え方だけでなく、自分自身との向き合い方も少し変えてくれるのかもしれません。
次回は、この「複数の自分」という見方を、対話的自己理論を手がかりに、もう少し理論的に整理してみたいと思います。

