
本書について
私たちは、何がよりよいのかを完全には知らないまま、それでも何かを選びながら生きています。
本書は、迷いや葛藤をなくす方法を示すものではありません。人生経験を通して、自分の見方や生き方を問い直し、以前とは違う応答を選べるようになる変化を、生き方の円熟という視点から考えます。
自分の人生を生きる自律、異なる他者と共に生きる調和、自分の見方を問い直す智慧、他者のよりよい生へ心を向ける慈悲。四つの働きが経験を通して互いを深め、人間精神が社会へと開かれていく道筋をたどります。
序章
迷いながら、それでもよりよく生きる
人生では、答えの出ない問いに出会う
私たちは人生のさまざまな場面で、「自分はどうすればよいのだろう」と迷います。
仕事を続けるのか、辞めるのか。
自分の気持ちを大切にするのか、相手との関係を大切にするのか。
家族を支えるのか、自分自身の生活を守るのか。
思っていることを伝えるのか、あえて言わずにいるのか。
こうした問いには、少し考えれば分かる正解があるとは限りません。
むしろ、どちらにも大切なものがあり、どちらを選んでも何かを手放すことになるからこそ、私たちは迷います。
人生で難しいのは、「よいこと」と「悪いこと」の間だけではなく、「大切なこと」と「大切なこと」の間で選ばなければならないことなのかもしれません。
迷うことは、未熟だからなのか
迷っていると、自分がまだ未熟だから決められないのではないかと思うことがあります。
もっと経験を積めば、迷わなくなるのではないか。
もっと強くなれば、自分の考えを貫けるのではないか。
もっと賢くなれば、何が正しいのか分かるようになるのではないか。
けれども、人生経験を重ねるほど、かえって簡単には決められなくなることがあります。
自分だけでなく相手にも事情があり、一つの選択が周囲にも影響することが、少しずつ見えるようになるからです。
また、今はよいと思えることが、長い目で見てもよいとは限らないことにも気づきます。
そう考えると、迷いがあることと、未熟であることは同じではありません。
以前には見えていなかったものが見えるようになったからこそ、簡単には決められなくなることもあります。
では、迷わなくなることではなく、迷いながらも生き方そのものが深まっていくことを、どのように考えればよいのでしょうか。
本書では、そこに生き方の円熟という視点を置いてみたいと思います。
人は、迷いながら何かを選んでいる
迷っていても、人生は止まりません。
すべての情報がそろうまで待つことも、未来の結果を確かめてから選ぶこともできません。
それでも私たちは、その時点で分かっていることをもとに、何かを選びながら生きています。
何もしないことや、いったん待つことも含めて、現実との関わり方を選び続けています。
ここに、人生の難しさがあります。
経験は、「よりよい」の意味も変えていく
経験を重ねると、以前にはできなかったことができるようになります。
しかし、人生経験が変えるのは、やり方だけではありません。
自分では正しいと思ってしたことによって誰かを傷つけたとき、それまでの考え方そのものを問い直すことがあります。
相手のためによいと思ってしたことが、相手には望まれていなかったと知ったとき、「助けるとはどういうことなのだろう」と考え直すこともあります。
そのような経験を通して、
「自分は、なぜこれを正しいと思っていたのだろう。」
「自分は、本当は何を大切にしたいのだろう。」
と問い始めることがあります。
ここでは、何を選ぶかだけではなく、何を「よりよい」と考えるのかという理解そのものが問い直されています。
経験は、答えを増やすだけではなく、「よりよい」の意味そのものを変えていくことがあるのです。
本書で考えるのは、生き方の円熟である
「円熟」という言葉には、さまざまな意味があります。
長年の修練によって技や芸が深まることもあれば、ものの見方や人との関わり方、生を味わう力が深まることもあるでしょう。
人間精神の円熟には、さまざまな形があり得ます。
本書では、そのすべてを扱うのではなく、その中でも特に生き方の円熟に焦点を絞ります。
ここでいう生き方とは、人生の計画や目標だけではありません。
目の前の現実に出会ったとき、何を大切にし、何を選び、他者とどのように関わり、その経験を次の生き方へどうつなげていくのかという、生きる営み全体に関わっています。
本書では、生き方の円熟を、迷いながらも、自分の見方や他者との関わり方を問い直し、経験を通して生き方を深めていく過程として考えてみたいと思います。
その意味が何であるのかを、この本を通して少しずつ確かめていきます。
なぜ、生き方の円熟が大切なのか
人生には、知識や技術だけでは解けない問題があります。
仕事を続けるのか辞めるのか、家族をどこまで支えるのかといった問いは、情報を集めれば自動的に答えが決まるわけではありません。
そこでは、「何が正しいのか」だけでなく、「私はどう生きるのか」が問われます。
しかも、その問いへの答えは、人生の途中で変わることがあります。
以前は何より大切だと思っていたことを問い直すこともあれば、自分には必要ないと思っていたものの価値に、あとから気づくこともあります。
だから、生き方は一度決めれば終わるものではありません。
経験するたびに、自分の見方や大切にしたいことを問い直しながら、何度でも生き方をつくり直していくことができます。
その意味で、生き方の円熟は、特別な境地を目指す人だけの問題ではなく、迷いながら人生を生きる私たち一人ひとりの問題なのです。
迷いをなくすのではなく、迷いながら生きる
この本は、人生の迷いをなくす方法を示す本ではありません。
迷いをすべて解決できるようになることを目指す本でもありません。
人生には、どれほど考えても答えの出ない問いがあります。
自分にとって大切なことと、相手にとって大切なことがぶつかることもあります。
何を選んでも後悔が残ることもあります。
それでも、自分は何を大切にしているのかを考えることはできます。
相手は何を大切にしているのかを知ろうとすることもできます。
自分の見方だけが正しいと思い込んでいないかを問い直すこともできます。
そして、自分と他者にとって少しでもよりよい方向はどこにあるのかを考えながら、その時点での一歩を選ぶことはできます。
その選択が思ったような結果にならなければ、そこでまた考え直すこともできます。
迷いながら考える。
迷いながら選ぶ。
迷いながら人と関わる。
そして、その経験を通して、もう一度自分の生き方を問い直す。
迷いは、ただ取り除かなければならないものではなく、自分が何を大切にしているのかを見つめ、生き方を深めていく入口にもなり得ます。
本書の見取り図
本書では、まず、自分として生きることと、他者と共に生きることから考え始めます。
そこから、自分の人生を生きる自律と、異なる他者と共に生きる調和について考え、その二つがどのように関わりながら働くのかをたどります。
さらに、自分の見方を問い直す智慧と、他者のよりよい生へ心を向ける慈悲について考え、経験を通して四つの働きがどのように互いを深めていくのかを見ていきます。
そして、そうした人間精神の働きが社会とどのようにつながるのかへ視野を広げたあと、もう一度、「私たちは、どうすればよりよく生きられるのか」という問いへ戻ります。
目指すのは、迷わない人生ではありません。
本書では、その道筋をたどりながら、生き方の円熟とは何かを考えていきます。
第1章
自分を生きることと、他者と共に生きること
自分の人生を、自分の人生として生きたい
私たちは、ときどき「自分は本当はどうしたいのだろう」と立ち止まります。
仕事を続けるのか、別の道へ進むのか。
周囲から期待されていることに応えるのか、自分が大切にしたいことを優先するのか。
誰かのために頑張り続けるのか、それとも自分自身の時間を取り戻すのか。
日々の生活では、役割や責任に応じて動くことが多くても、その中でふと、「これは本当に自分の人生なのだろうか」と感じることがあります。
その問いが生まれるのは、私たちが単に役割を果たす存在ではなく、自分の生を、自分自身のものとして生きようとする存在だからではないでしょうか。
自分が何を大切にしているのかを考え、自分なりに選び、その選択を自分のものとして引き受けながら生きたい。
たとえすべてを自分で決めることができなくても、自分の人生に自分自身が関わり続けたい。
そこには、「自分として生きたい」という、簡単には消えることのない方向があります。
けれども、自分の人生は自分だけでは成り立たない
自分の人生を生きるということは、自分の思いだけで生きることではありません。
私たちは、生まれたときから他者との関係の中にいます。
誰かに育てられ、言葉を教えられ、食べるものを与えられ、さまざまな人に支えられながら生きてきました。
大人になってからも、家族、友人、仕事で関わる人たちなど、さまざまな他者との関係から離れて生きることはできません。
自分が何かを選べば、その選択によって影響を受ける人がいることがあります。
反対に、自分自身もまた、誰かの選択や支えによって生き方を左右されます。
つまり、私たちは、自分の人生を生きながら、同時に、他者との関係の中で生きています。
ここに、人間が生きることの根本的な難しさがあります。
他者にも、その人自身の人生がある
人との関係が難しいのは、相手が自分の思いどおりにはならないからだけではありません。
もっと根本的には、相手にも、その人自身の人生があるからです。
相手にも、自分とは違う経験があります。
違う価値観があります。
違う願いがあります。
違う不安があります。
同じ出来事に出会っても、受け取り方が違うことがあります。
自分では相手のためによいと思ったことが、相手には望まれていないこともあります。
自分が当然だと思っていることを、相手はまったく違うように考えていることもあります。
どれほど親しい相手であっても、その人は自分とは別の人生を生きています。
このことを本当に認めると、他者との関係は少し違って見えてきます。
相手を自分の考えに合わせることではなく、違う人生を生きる者どうしが、どう関わるのかという問題になるからです。
私たちは、二人だけの関係の中にいるわけではない
しかも、人と人との関係は、二人だけで完結しているわけではありません。
親子の関係は、家族全体の関係の中にあります。
仕事での関係にも、それぞれの立場や役割、責任があります。
「自分はこうしたい」と思っても、家族の事情を考えなければならないことがあります。
「相手を大切にしたい」と思っても、その人との関係だけではなく、周囲との関係まで考えなければならないこともあります。
私たちは、一人の他者だけと関わって生きているわけではありません。
家族との関係があり、仕事で関わる人との関係があり、友人との関係があります。
そして、それらの関係は、互いに切り離されているわけではありません。
一つの関係で起きたことが、別の関係に影響することもあります。
その意味で、私たちは、いくつもの関係が重なり合う中で生きています。
自分も大切、関係も大切だから迷う
本当は断りたい。
けれども、相手を困らせたくない。
自分の考えを伝えたい。
けれども、関係を壊したくない。
自分が進みたい道がある。
けれども、家族のことも大切にしたい。
こうした迷いは、自分の気持ちが弱いから生まれるとは限りません。
むしろ、自分の生も大切であり、他者との関係も大切だからこそ生まれる迷いがあります。
自分だけを考えれば、答えは簡単になるかもしれません。
相手だけを考えても、答えは簡単になるかもしれません。
けれども、自分も相手も大切だと分かると、簡単には決められなくなります。
序章では、迷うことと未熟であることは同じではないと考えました。
ここでも、そのことが見えてきます。
迷いは、どちらか一方しか見えていないときよりも、複数の大切なものが見えてきたときに深くなることがあるのです。
自分として生きることと、他者と共に生きること
ここまで考えてくると、人間の生には、少なくとも二つの基本的な営みがあることが見えてきます。
一つは、自分として生きることです。
自分が何を大切にしているのかを考え、自分なりに選び、その選択を自分の人生として引き受けながら生きる。
もう一つは、他者と共に生きることです。
自分とは異なる他者と関わり、その違いを抱えながら、関係をつくり、育て、必要に応じて調え直しながら生きる。
私たちは、この二つのどちらか一方だけを生きているわけではありません。
自分として生きながら、同時に他者との関係の中で生きています。
そして、他者との関係も、一対一の関係だけにとどまらず、いくつもの関係が重なり合う中へと広がっています。
自分として生きようとするとき、自律が働く
自分として生きるとき、私たちは何をしているのでしょうか。
自分が何を大切にしたいのかを考えます。
いくつかの可能性の中から、自分なりに選びます。
選んだことが思うような結果にならなくても、その経験を自分の人生の一部として受け取り、もう一度考え直します。
このように、自分の人生に自分自身が関わり、自分なりに選び、その生を引き受けようとするときに働くものを、本書では自律と呼びます。
自律は、何でも一人で決めることではありません。
他者に相談し、支えられ、その意見を受け取りながら選ぶこともあります。
それでも最後には、自分の生として、その選択に関わっていく。
そこに自律という働きがあります。
他者と共に生きようとするとき、調和が働く
一方、他者と共に生きるとき、私たちは相手との違いに出会います。
自分が望むことと、相手が望むことが同じとは限りません。
そのとき、どちらかが一方的に相手へ合わせれば、表面的には争いを避けられるかもしれません。
しかし、それだけで関係がよくなるとは限りません。
大切なのは、違いを消すことではなく、違いがあることを認めながら、それでも関係をどう生きるのかを考えることです。
そのためには、約束を守り、自分が引き受けたことを果たし、互いに信頼できるように関わることも必要になります。
そこで本書では、自分とは異なる他者との関係を大切にし、共に生きられるあり方を探しながら、関係を育てていこうとするときに働くものを調和と呼びます。
調和は、相手に合わせることでも、争いを避けることでもありません。
違うまま、どう共に生きるのかを探す働きです。
自律と調和は、別々に生きられるものではない
自律と調和を言葉として分けることはできます。
けれども、実際の人生では、この二つはきれいに分かれて働くわけではありません。
自分が何かを選べば、その選択は他者との関係に影響します。
他者との関係の中で経験したことが、自分が何を大切にするのかを変えることもあります。
誰かと出会ったことで、自分の生き方を考え直すことがあります。
反対に、自分の考えを率直に伝えたことで、関係そのものが変わることもあります。
つまり、自分として生きることと、他者と共に生きることは、二つの別々の人生ではありません。
一つの人生の中で、互いに影響し合っている二つの営みなのです。
だからこそ、どちらか一方だけを十分にすればよいとは限りません。
自分を大切にすることが、他者との関係の中でどのような意味をもつのか。
他者との関係を大切にすることが、自分の生き方にどのような影響を与えるのか。
私たちは、その両方を生きながら考えていくことになります。
二つの働きは、人間の生に根ざしている
自律と調和は、特別な人だけが身につける能力ではありません。
人生の大きな決断をするときだけに現れるものでもありません。
今日は休むのか。
頼まれたことを引き受けるのか。
自分の意見を伝えるのか。
私たちは日常の小さな場面でも、自分として生きることと、他者と共に生きることの間を行き来しています。
だから、自律と調和は、人間が生きることそのものの中で繰り返し働く、基本的な人間精神の働きだと考えることができます。
そして、この二つがあるからこそ、私たちは迷います。
けれども同時に、この二つがあるからこそ、自分を失わずに他者と関わり、他者との関係の中で自分自身の生き方を深めていくこともできます。
第2章
自律 ― 自分の人生を、自分の人生として生きる
自分の人生を生きるとは、どういうことか
前章では、人間は、自分として生きながら、同時に他者と共に生きる存在であると考えました。
そのうち、自分として生きようとするときに働くのが、自律です。
けれども、「自分の人生を生きる」とは、考えてみると少し不思議な言葉です。
私たちは、自分が生まれる時代を選んだわけではありません。
どのような家族のもとに生まれるのかも、どのような身体をもつのかも、自分では決めていません。
人生の途中でも、病気や事故、他者との出会いや別れ、仕事や社会の変化など、自分では選んでいない出来事に何度も出会います。
それでも、その人生を誰かに代わって生きてもらうことはできません。
与えられた身体を生き、起きてしまった出来事を抱え、選べなかった条件の中で、その先を生きていくのは自分自身です。
そう考えると、自分の人生を生きるということは、人生のすべてを自分で決めることではなさそうです。
むしろ、自分では選べないものを多く含む人生に、それでも自分自身が関わり続けることが、自律の出発点にあります。
だから、自律は、何でも自分一人で決めることではありません。
人は、他者に支えられ、社会の中に位置づけられ、さまざまな条件の中で生きています。
その中で、自分は何を大切にするのか。
何を選ぶのか。
何を引き受けるのか。
そして、選んだことが思うような結果にならなかったときに、そこから何を考え直すのか。
そうした一つひとつの関わりの中に、自律という働きが現れます。
自分で選ぶとは、どういうことか
「自分で選ぶ」というと、いくつかの選択肢の中から、自分の好きなものを自由に選ぶことを思い浮かべるかもしれません。
けれども、人生で出会う選択は、いつもそのように分かりやすいものではありません。
どれも選びたくないことがあります。
どれを選んでも何かを失うことがあります。
そもそも、自分が選べる範囲そのものが限られていることもあります。
仕事を辞めたいと思っても、生活の事情があれば、すぐには辞められないかもしれません。
家族を支えたいと思っても、自分の身体や時間には限りがあります。
関係を続けたいと思っても、相手が同じことを望んでいるとは限りません。
それでも、完全に何も選べないわけではありません。
続けるのか。
いったん待つのか。
相談するのか。
助けを求めるのか。
距離を取るのか。
今すぐには決めないという選び方もあります。
少なくとも、自律に関わる自由は、何の制約もないことではなく、制約の中でも、現実との関わり方にいくつかの可能性が残されていることとして捉えることができます。
ただし、自分で選ぶということは、そのときの気持ちにそのまま従うこととも違います。
腹が立ったから言い返したい。
不安だから逃げたい。
期待されているから引き受けたい。
認められたいから頑張りたい。
こうした気持ちも、確かに自分の中から生まれています。
しかし、それに従ったからといって、それがそのまま自分の生きたい生き方だとは限りません。
自律には、自分の気持ちを無視するのではなく、その気持ちを受け止めながら、自分は何を大切にしたいのかを考えることが含まれています。
そのうえで、今の自分にできることを選ぶ。
自分で選ぶとは、好きなものを自由に選ぶことよりも、むしろ、限られた条件の中で、自分がどう関わるのかを考え、その選択に自分自身が関わることなのだと思います。
自律があるから、人は決断し、挑戦し、創造できる
自律は、迷いながら人生を引き受けるための働きであるだけではありません。
自律があるからこそ、人は現実に対して自分から働きかけることができます。
すべてが分かるまで待つことができない場面では、「私はこうする」と決めなければならないことがあります。
意見が分かれている中で、自分の考えを表明することもあります。
誰かから頼まれたことを、引き受けられないと断ることもあります。
こうした決断には、自分の生に自分自身が関わろうとする働きが必要です。
さらに、自律は、今ある現実に適応するだけではなく、そこに新しい可能性を持ち込む力にもなります。
これまで通りの生き方に疑問を感じて、別の道へ進む。
誰も始めていなかったことを、自分から始める。
これまでのやり方ではうまくいかないと考えて、新しい方法を試す。
まだ形になっていない考えを、言葉や作品や活動として形にしていく。
こうした挑戦や創造の背後には、「自分はこうしてみたい」という、自分自身から現実へ働きかける方向があります。
人は、ただ与えられた条件に適応して生きているだけではありません。
ときには、その条件の中に新しい選択肢を生み出し、周囲との関係を変え、自分自身の人生の形を変えていきます。
そして、自分が選んだことを、自分の経験として受け取ることも自律に含まれています。
自分で決めたからといって、結果のすべてが自分の責任になるわけではありません。
未来には予測できないことがあり、他者の反応や社会の変化まで自分で決めることはできません。
それでも、自分が何を考え、何を選び、どう関わったのかを振り返ることはできます。
うまくいかなかったのであれば、そこから学び、次には違う選び方をすることもできます。
その意味で、引き受けるとは、自分を責めることではなく、自分の選択を自分の人生の経験として受け取り、次の生き方へつなげることです。
自律の力は、独断や独走にも変わりうる
ここまで見てきたように、自律は、人が自分の人生を生きるうえで大きな力になります。
決断する。
自分の意見を表明する。
挑戦する。
創造する。
責任を引き受ける。
こうした営みには、自律が深く関わっています。
しかし、自律の力が大きければ、それだけでよりよい生き方になるのでしょうか。
必ずしも、そうとは限りません。
自分で考え、自分で決めることに慣れている人は、自分の判断に自信をもつようになります。
その自信があるからこそ、難しい場面でも決断できることがあります。
けれども、その自信が強くなりすぎて、他者の意見を受け取る余地がなくなれば、決断は独断に変わります。
自分から動けることも、大切な力です。
けれども、自分にだけ進むべき方向が見えているように感じ、周囲がどのように受け止めているのかを確かめないまま進めば、主体性は独走に変わります。
自分が大切にしたいことを持つことも、自律にとって重要です。
けれども、「私はこう生きたい」という信念が、「こう生きるしかない」という思いに変われば、別の可能性が見えにくくなり、信念は固執に変わります。
また、自分で考え、自分で引き受けようとする人ほど、人に頼ることが難しくなる場合があります。
弱さを見せられない。
任せられない。
助けを求められない。
そうなると、自立は孤立に近づいていきます。
ここで重要なのは、決断や主体性や信念そのものが問題なのではないということです。
むしろ、それらは自律がもつ大切な力です。
問題は、自律の力が、他者や別の見方を受け取る余地を失い、自分の中だけで完結しようとするときに生まれます。
そのとき、人は一つの見方や一つの生き方に閉じていくことがあります。
自律を弱めればよいのか
では、独断や独走を避けるためには、自律を弱めればよいのでしょうか。
自分の考えをあまり主張しない。
できるだけ周囲に合わせる。
自分で決めることを減らす。
そうすれば、他者との衝突は少なくなるかもしれません。
しかし、それでは、自律がもっていた大切な力まで失われてしまいます。
誰かが決断しなければならないときがあります。
周囲とは違う意見であっても、伝える必要があることがあります。
今までとは違う道を開かなければ、新しいものが生まれないこともあります。
だから問題は、自律が強いことそのものではありません。
そう考えると、生き方が円熟するということも、自律を弱めることではなさそうです。
決断する力を失うのではなく、他者の声を受け取りながら決断できるようになる。
自分の意見を捨てるのではなく、違う意見があることを認めながら、それでも自分の考えを伝えられるようになる。
創造する力を抑えるのではなく、その創造が周囲にどのような影響を与えるのかにも目を向けられるようになる。
つまり、円熟とは、自律の力そのものを小さくすることではなく、他者や関係との出会いの中で、その働き方そのものが変わっていくことなのかもしれません。
一つの働きを強くすることが、そのまま円熟なのではありません。
他のものと関わることで、その働きの意味や現れ方そのものが変わっていく。
このことは、これから考えていく調和や智慧、慈悲にもつながっていきます。
自律とは、自分の人生に関わり続ける働きである
ここまで考えてくると、自律は、単に「自分で決める力」という言葉では十分に表せないことが分かります。
自律とは、何でも思いどおりにできることでも、他者から独立して生きることでもありません。
むしろ、自分では選べないものを抱え、他者に支えられ、社会の中でさまざまな条件を受けながら、それでも自分の人生に自分自身が関わり続ける働きです。
何を大切にするのかを考える。
その時点で選べることの中から、自分なりに選ぶ。
選んだことを、自分の人生の経験として受け取る。
そして、必要であれば、もう一度選び直す。
だからこそ、自律は、決断し、挑戦し、創造する力にもなります。
同時に、その力が自分の中だけで完結しようとすれば、独断や独走、固執や孤立へ傾くこともあります。
自律をどのように働かせるのかを考えるためには、自律だけを見ていては足りないのかもしれません。
自分が自分の人生を生きているように、他者もまた、その人自身の人生を生きています。
そして、自分の選択は、その人たちとの関係の中へ入っていきます。
では、自分とは異なる他者と、違いを抱えたまま、どのように共に生きていけばよいのでしょうか。
次章では、そのことについて考えていきます。
第3章
調和 ― 違う他者と、どう共に生きるのか
他者と共に生きるとは、どういうことか
第1章では、人間は、自分として生きながら、同時に他者と共に生きる存在であると考えました。
第2章では、そのうち自分として生きようとするときに働く自律について考えました。
では、他者と共に生きるとは、どういうことなのでしょうか。
私たちが日々関わっている他者は、自分と同じように考え、自分と同じものを大切にしているわけではありません。
相手には、その人自身の経験があります。
その人なりの価値観があります。
その人なりの願いや事情があります。
同じ出来事に出会っても、自分とは違う意味を感じ取ることがあります。
だから、人と共に生きるということは、考え方や感じ方を同じにすることではありません。
むしろ、違う者どうしが、それでも関係を持ちながら生きることです。
家族であっても、夫婦であっても、友人であっても、仕事の仲間であっても、その違いがなくなることはありません。
しかも、私たちが向き合う相手も、家族や職場、地域や社会といった、より大きな関係の中で生きています。
そのような重なり合う関係の中で、違う人どうしが、それでもどう共に生きるのか。
調和は、違いをなくすことではない
「調和」という言葉から、私たちは何を思い浮かべるでしょうか。
仲良くすること。
争わないこと。
相手に合わせること。
互いに譲ること。
こうしたあり方も、調和に関わっています。
けれども、もし調和するために皆が同じ考えにならなければならないのだとすれば、人と人との違いそのものが問題になってしまいます。
実際には、私たちは違うからこそ、関係の中で迷います。
自分はこうしたい。
相手はそうしたくない。
自分にとって大切なことが、相手にはそれほど大切ではない。
自分には当然に見えることが、相手にはそう見えない。
その違いをなくそうとすれば、どちらか一方が自分を抑えることになるかもしれません。
反対に、自分の違いだけを押し通せば、関係そのものが成り立たなくなることがあります。
だから、調和に必要なのは、違いを消すことではありません。
そこでは、「どちらが正しいか」だけではなく、「違う者どうしが、どう関わっていけるのか」という問いが生まれます。
調和は、その難しい営みを支える働きだと考えることができます。
調和があるから、人は協力し、支え合い、共につくることができる
調和は、衝突を避けたり、関係を壊さないようにしたりするためだけの働きではありません。
他者と関係を持つことで、一人ではできなかったことが可能になります。
自分にはない知識を持つ人がいる。
自分とは違う見方から、思いもよらなかったことを教えてくれる人がいる。
その違いを排除するのではなく、関係の中で生かすことができれば、一人では生まれなかったものが生まれます。
誰かの話を聞くことで、自分には見えていなかったことが見えてくる。
互いに支え合うことで、どちらか一人では越えられなかった困難を越えられることもあります。
そして、ときには、異なる考えが出会うことで、それまで誰にも見えていなかった新しい考えが生まれます。
自律では、自分自身から現実へ働きかけることで、新しい可能性が生まれました。
調和では、異なる人どうしが関わることそのものから、新しい可能性が生まれます。
だから、他者と共に生きることは、自分を抑えて相手に合わせることだけではありません。
他者がいるからこそ、自分だけでは気づけなかったことに気づき、自分だけではできなかったことができ、自分だけではつくれなかったものを共につくることができます。
信頼は、共に生きる関係を支えている
人と共に生きるためには、相手の違いを認め、その思いや考えに耳を傾けることが大切です。
しかし、関係を支えているのは、それだけではありません。
約束したことを守る。
引き受けた役割を果たす。
相手から聞いた大切なことを、むやみに他の人へ話さない。
できないことを、できるふりをして引き受けない。
間違ったときには、それを隠さずに伝える。
こうした一つひとつの行動もまた、人と共に生きる関係を支えています。
なぜなら、私たちは相手との関係の中で、相手がどのように行動するのかをある程度信頼しながら生きているからです。
約束したことは守ってくれるだろう。
任せたことは、できる範囲で果たしてくれるだろう。
困ったことがあれば、黙って離れるのではなく伝えてくれるだろう。
そのように互いを信頼できるからこそ、私たちは安心して相手に何かを任せたり、役割を分かち合ったりすることができます。
反対に、どれほど相手を大切に思っていても、約束が何度も破られたり、引き受けたことが果たされなかったりすれば、関係の中に不安が生まれます。
「この人に任せても大丈夫だろうか。」
「また約束が守られないのではないか。」
そのような思いが重なると、相手を信頼して関わることが難しくなっていきます。
ここで大切なのは、相手を無条件に信頼することではありません。
自分が相手から信頼されるように行動し、相手もまた信頼に応える行動を重ねることで、互いに信頼できる関係が少しずつ育っていきます。
そこでは、相手の気持ちを思いやることと同じように、約束を守ることや、自分の役割を果たすこと、誠実に関わることも大切になります。
そして、そのような信頼があるからこそ、私たちは互いに任せ合い、協力し、支え合いながら生きていくことができるのです。
調和を求める力は、迎合や自己犠牲にも傾きうる
しかし、関係を大切にする力も、それだけでいつもよりよい結果を生むわけではありません。
相手を大切にしたい。
相手を困らせたくない。
関係を壊したくない。
周囲とうまくやっていきたい。
こうした思いがあるからこそ、私たちは相手の話を聞き、配慮し、ときには自分の希望を少し譲ることができます。
それは、他者と共に生きるために大切なことです。
けれども、相手を大切にしようとするあまり、自分の思いをいつも後回しにするようになることがあります。
配慮を重ねるうちに、相手が何を望んでいるのかばかりを考え、自分がどう感じているのかが分からなくなることもあります。
周囲との関係を乱したくないために、自分では違うと思っていても何も言わないことがあります。
そのようなとき、配慮が過剰になり、協調が同調へ傾き、譲ることが迎合に近づいていきます。
また、誰かを支えたいという思いが強いほど、必要以上のことまで引き受けてしまうことがあります。
相手のためにと思って支え続けるうちに、自分自身が疲れ果ててしまう。
それでも、「自分がやらなければ」と思ってしまう。
そのとき、支援は抱え込みに近づき、関係を大切にすることが自己犠牲へと変わることがあります。
ここで問題なのは、相手を大切にすることではありません。
問題になるのは、関係を大切にしようとする中で、自分自身の違いや願いや限界が見えなくなっていくことです。
調和は、違いを抱えながら関係を生きる働きであるはずです。
自分自身の違いまで消してしまえば、そこに残るのは、違う者どうしが関わる関係ではなく、一方がもう一方に合わせ続ける関係になってしまいます。
関係を大切にするほど、迷うことがある
では、相手を大切にしながら、自分自身も失わないためには、どうすればよいのでしょうか。
ここで、調和の難しさがもう一度見えてきます。
相手のために譲りたい。
けれども、譲り続ければ苦しくなる。
関係を壊したくない。
けれども、何も言わなければ、自分との違いは相手に伝わらない。
困っている人を支えたい。
けれども、何でも代わりにしてしまえば、その人が自分で取り組む機会を奪うこともあります。
このような場面では、「相手を大切にする」ということだけでは、どうすればよいのかは決まりません。
むしろ、関係を大切に考えるほど、簡単には答えが出なくなることがあります。
相手に合わせるのか、自分の考えを伝えるのか。
譲るのか、自分の希望を守るのか。
どちらか一方を選べばよいとは限りません。
なぜなら、ここで考えたいのは、相手だけでも、自分だけでもなく、自分も相手も含まれた関係のあり方だからです。
だから、関係を大切にすることと、関係のために自分を失うことは同じではありません。
けれども、その二つをどこで分ければよいのかは、いつも明らかではありません。
調和だけを大切にしようとしても、何がよりよい調和なのかは、それだけでは決まらないのです。
調和とは、違いを抱えながら関係を生きる働きである
ここまで考えてくると、調和は、単に「仲良くすること」や「周囲に合わせること」という言葉では十分に表せないことが分かります。
他者には、その人自身の人生があります。
自分には、自分自身の人生があります。
その違いをなくすことはできません。
むしろ、違いがあるからこそ、相手から学び、支え合い、協力し、一人では生み出せなかったものを共につくることができます。
その働きがあるからこそ、人は相手の声を聞き、互いに信頼できる関係を育てながら、支え合い、協力し、共に何かを生み出すことができます。
一方で、関係を大切にしようとするあまり、自分自身の違いや限界を見失えば、迎合や同調、抱え込みや自己犠牲へ傾くこともあります。
第2章では、自律の力が自分の中だけで完結しようとすると、独断や独走へ傾くことがあると考えました。
この章では、関係を大切にしようとするあまり、自分自身の違いや限界を見失うことがあると考えてきました。
だとすれば、自律か調和か、どちらか一方を強くすればよいわけではなさそうです。
自分として生きること。
他者と共に生きること。
その二つを、私たちは一つの人生の中で同時に生きています。
では、自律と調和は、どのように関わりながら働けばよいのでしょうか。
次章では、自律と調和の関係そのものを考えていきます。
第4章
自律と調和は、どう互いを変えるのか
自分を大切にすると、関係は壊れるのか
第2章では、自分として生きるときに働く自律について考えました。
第3章では、他者と共に生きるときに働く調和について考えました。
どちらも、人間が生きるうえで欠かすことのできない働きです。
けれども、実際の人生では、この二つが同じ方向を向いているようには見えないことがあります。
自分の考えを率直に伝えれば、相手を傷つけるかもしれない。
頼まれたことを断れば、関係が悪くなるかもしれない。
自分が進みたい道を選べば、家族に負担をかけるかもしれない。
反対に、相手に合わせ続ければ、自分が苦しくなる。
関係を壊さないことを優先すれば、自分が望んでいることを諦めることになるかもしれない。
こうした場面では、自律と調和が互いに反対方向へ引っ張っているように感じられます。
だから私たちは、
「自分を大切にするべきか。」
「関係を大切にするべきか。」
と迷います。
けれども、本当にこの二つは、どちらかを選べば、もう一方を諦めなければならないものなのでしょうか。
自分の思いを言わずに相手へ合わせ続ければ、表面的な関係は保てるかもしれません。
しかし、自分の中に不満が積み重なれば、その関係は少しずつ苦しいものになっていきます。
反対に、自分の思いを伝えることで一時的に衝突しても、それをきっかけに互いの考えを初めて知り、以前より率直に話せるようになることもあります。
そう考えると、自分を大切にすることと、関係を大切にすることは、必ずしも反対ではないことが見えてきます。
むしろ問題になるのは、自律と調和を、初めから互いに奪い合うものとして考えてしまうことなのかもしれません。
自律と調和は、バランスを取ればよいのか
自律と調和がどちらも大切だとすれば、次に思い浮かぶのは「バランスを取る」という考え方です。
自分のことばかり考えず、相手のことも考える。
相手に合わせすぎず、自分の意見も伝える。
自律にも調和にも偏らず、ちょうどよいところを探す。
これは、確かに大切な考え方です。
実際、どちらか一方に大きく偏っているときには、もう一方に少し目を向けるだけで、関係が変わることがあります。
けれども、生き方の円熟を考えるなら、バランスという言葉だけでは十分ではありません。
バランスというと、自律と調和という二つの力が別々に存在し、その配分を調節するようなイメージがあります。
しかし、人と関わる中で起きていることは、それだけではありません。
相手の話を聞いたことで、自分が何を大切にしていたのかに気づくことがあります。
自分の思いを率直に伝えたことで、相手が本当に望んでいたことを初めて知ることもあります。
相手の意見を受け取った結果、自分で考え直し、以前とは違う選択をするのであれば、そこにも自律が働いています。
また、自分の意見をはっきり伝えたからといって、調和を壊すとも限りません。
違いが見えるようになったことで、かえって関係が深まることがあります。
つまり、自律と調和は、単に強さを調節し合っているだけではありません。
ここに、単なるバランスでは捉えきれない、自律と調和の関係があります。
調和は自律を、自律は調和を変える
第2章では、自律が人に決断する力を与える一方で、それが独断や独走へ傾くことがあると考えました。
では、そこに調和が働くと、何が変わるのでしょうか。
自分ではこうするべきだと思っている。
けれども、相手はどう考えているのか。
自分の決断によって、誰にどのような影響があるのか。
自分が引き受けている約束や役割は何か。
自分には見えていない事情があるのではないか。
こうして他者との関係に目を向けることで、自分の決断は変わることがあります。
それは、自律が弱くなったということではありません。
むしろ、他者の存在を受け取ったうえで、それでも自分として選び直しているのです。
自分の意見を持ちながら、相手の意見を聞く。
自分の進みたい方向を大切にしながら、それが周囲に与える影響にも目を向ける。
自分で引き受けながら、必要なときには人に頼る。
そこでは、自律は独立する力ではなく、関係の中で自分として生きる力へと変わっていきます。
同じことは、調和についても言えます。
第3章では、関係を大切にしようとするあまり、自分自身の違いや限界を見失うと、迎合や自己犠牲へ傾くことがあると考えました。
そこに自律が働くと、
「自分はどう感じているのか。」
「自分は何を大切にしたいのか。」
「ここまではできるが、ここから先は難しい。」
という自分自身の声が、もう一度関係の中に戻ってきます。
すると、調和は、相手に合わせ続けることではなくなります。
自分も相手も、それぞれ違う者として関係を生きることになります。
このように、自律と調和は、互いの力を弱めるためにあるのではありません。
互いがあるからこそ、それぞれの働き方が変わり、より豊かな形で現れることがあります。
自律と調和は、互いを変えながら働く
私たちは、自律と調和を言葉として分けて考えることができます。
けれども、実際の人生では、この二つは別々の場所で働いているわけではありません。
相手の話を聞いたことで、自分の決断が変わる。
自分の思いを伝えたことで、相手との関係が変わる。
関係が変わったことで、自分が大切にしたいものそのものが変わる。
そうして変わった自分が、また新しい関わり方を選ぶ。
このように、私たちは、自分を生きながら他者と関わり、他者と関わりながら自分の生き方をつくり直しています。
だから、自律と調和の関係は、
「自分を取るか、相手を取るか。」
という二者択一でも、
「自分を半分、相手を半分。」
という配分の問題でもありません。
このことは、生き方の円熟を考えるうえで重要です。
円熟とは、自律を強くすることでも、調和を強くすることでもありません。
また、二つの働きをいつも同じ強さに保つことでもありません。
ある場面では、自分の考えをはっきり伝える必要があります。
別の場面では、いったん自分の考えを脇に置いて、相手の話を聞く必要があります。
同じ関係の中でも、その時々によって必要な関わり方は変わります。
そこで問われるのは、自律と調和をどのくらい使うかではなく、その場で自律と調和がどのように関わりながら働くのかです。
以前なら独断になっていた決断が、他者の声を受け取った決断へ変わることがあります。
以前なら迎合していた場面で、自分の思いを伝えながら関係を続けられるようになることもあります。
そう考えると、自律と調和は、完成された二つの能力ではありません。
経験や関係を通して、それぞれの働き方そのものが深まっていくのです。
自律と調和を、何度でも調え直す
自律と調和がうまく働けば、いつか迷わなくなるのでしょうか。
おそらく、そうではありません。
自分も変わります。
相手も変わります。
家族や職場など、自分を取り巻く状況も変わります。
昨日までうまくいっていた関わり方が、今日は合わなくなることがあります。
以前には相手に譲ることが必要だった関係で、今度は自分の意見を伝えることが必要になるかもしれません。
自分の考えを貫くことが必要だった時期を経て、今度は他者の声を受け取ることが必要になることもあります。
だから、自律と調和には、一度見つければ終わる「正しい配分」があるわけではありません。
変化する現実に応じて、その働き方を何度でも調え直していく必要があります。
自分は何を大切にしたいのか。
相手は何を大切にしているのか。
この関係は、より大きな関係の中でどう見えるのか。
そうしたことを考えながら、そのときの応答をつくっていく。
そして、その応答が思うような結果にならなければ、そこからまた考え直す。
けれども、ここで一つの問題が残ります。
自律と調和を調え直すには、そもそも、自分が何を見ているのかを確かめなければなりません。
相手のことを分かったつもりになっていないか。
自分が正しいと思っていることは、本当にそれしかないのか。
これまでの経験から身につけた見方に、知らないうちに縛られていないか。
自律と調和をどう働かせるかを考えるためには、自分の見方そのものを問い直す働きが必要になります。
次章では、その働きについて考えていきます。
第5章
智慧 ― 自分の見方を、どう問い直すのか
私たちは、同じ現実を同じように見ているわけではない
前章では、自律と調和は、互いの働き方を変えながら、その場に応じたよりよい応答を生み出していくと考えました。
けれども、その応答を考える前に、もう一つ確かめておかなければならないことがあります。
それは、私たちが同じ現実を、同じように見ているわけではないということです。
たとえば、会議で一人の人がほとんど発言しなかったとします。
ある人は、「慎重に考えているのだろう」と受け取るかもしれません。
別の人は、「意見がないのだろう」と感じるかもしれません。
また別の人には、「反対しているのではないか」と見えることもあります。
起きている出来事は同じでも、そこから何を感じ取り、何を意味あることとして受け取るかは、人によって違います。
それは、私たちが、ただ目の前の出来事だけを見ているわけではないからです。
これまでに何を経験してきたのか。
何を大切にしているのか。
どのような立場にいるのか。
何を期待しているのか。
そのとき、どのような感情を抱いているのか。
そうしたものが重なり合いながら、目の前の現実の見え方を形づくっています。
同じ言葉をかけられても、励まされたと感じる人もいれば、責められたと感じる人もいます。
同じ行動を見ても、「誠実だ」と感じる人もいれば、「融通が利かない」と感じる人もいます。
自分では、ただ現実を見ているつもりでも、実際には、自分なりの見方を通して現実を捉えているのです。
このこと自体は、特別な問題ではありません。
人が何かを理解するときには、それまでの経験や価値観を手がかりにする必要があります。
問題は、自分が一つの見方を通して現実を見ていることを忘れ、その見方を現実そのものだと思ってしまうときに生まれます。
そこで必要になるのが、自分の見方そのものを問い直す働きです。
自分には何が見えているのか。
何がまだ見えていないのか。
別の見方はあり得ないのか。
このように、自分の見方を一つの見方として捉え直しながら、現実への理解を深めていく働きを、本書では智慧と呼びます。
智慧が十分に働かないとき、見方は「現実そのもの」になる
誰かと意見が合わなかったとき、
「あの人は自分勝手だ。」
と思うことがあります。
そのように感じること自体は不思議なことではありません。
けれども、その見方がいつの間にか、
「あの人は自分勝手な人だ。」
という理解に変わることがあります。
最初は、「自分にはそう見える」という経験だったものが、いつの間にか、「相手は実際にそういう人である」という事実のようになっていきます。
同じことは、自分自身についても起こります。
一度うまくいかなかった経験から、
「自分は人前で話すのが苦手だ。」
と思う。
それが何度か続くうちに、
「自分は、人前ではうまく話せない人間だ。」
という自己理解になることがあります。
ここで起きているのは、単に考えが固くなるということだけではありません。
この変化が起きると、自分の見方そのものが見えにくくなります。
「普通はこうする。」
「この人はこういう人だ。」
「自分はこういう人間だ。」
「これしかない。」
そうした言葉が、現実を説明する言葉として強くなっていきます。
もちろん、実際にそう判断するだけの理由がある場合もあります。
経験を重ねたからこそ分かることもあります。
けれども、自分がそう判断していることと、それ以外の見方があり得ないことは同じではありません。
智慧が十分に働かないとき、私たちは、自分の見方を現実そのものとして扱いやすくなります。
そして、自分がどのような前提からそう見ているのかに気づかないまま、次の判断へ進んでいきます。
智慧が働くとき、見方は開かれる
では、智慧が働くと何が変わるのでしょうか。
「あの人は自分勝手だ。」
と思ったとき、その判断をすぐに捨てる必要はありません。
実際に、自分勝手に見える行動をしているのかもしれません。
ただ、そこで少し立ち止まり、自分が何を期待していたのか、相手のどの行動に反応しているのか、相手には自分には見えていない事情があるのかを考えることができます。
こうして考えると、「自分勝手だ」という見方を否定しなくても、その見方だけが唯一の理解ではなくなっていきます。
「こうするしかない」と感じているときにも、他の可能性が本当にないのかを考え直すことができます。
「自分はこういう人間だ」と思っているときにも、それがこれまでの経験からつくられた自己理解ではないかと、少し距離を取って見ることができます。
ここで智慧がしているのは、自分の見方を捨てることではありません。
何でも反対に考えることでもありません。
自分の見方を、一つの見方として捉え直すことです。
自分には、今はこう見えている。
けれども、まだ見えていないものがあるかもしれない。
別の立場から見れば、違って見えるかもしれない。
新しい経験をすれば、自分の理解そのものが変わるかもしれない。
この余地が生まれることで、見方は開かれます。
智慧が働いても、すぐに正しい答えが分かるわけではありません。
むしろ、自分には分からないものがあることも見えてきます。
相手が本当はどう感じているのかは、完全には分からない。
この選択が将来どのような結果になるのかも、完全には分からない。
それでも、分からないものがあることを含めて、今見えているものを捉え直すことはできます。
その意味で、智慧の第一歩は、自分には見えていないものがあるかもしれないと認めることなのかもしれません。
智慧は、答えを増やすことではなく、問いを深める
人生経験を重ねると、いろいろなことが分かるようになります。
仕事では、このようなときにはどう動けばよいのかが分かる。
人との関わりでも、こういう言い方をすると伝わりやすいということが分かる。
失敗を重ねることで、避けた方がよいことも見えてきます。
こうした知識や経験は、私たちが生きるうえで大切なものです。
けれども、知識や経験が増えることと、智慧が深まることは、まったく同じではありません。
経験を重ねると、「この場合はこうすればよい」「自分にはこのやり方が合っている」と判断できるようになります。
その判断は、これまでの経験に支えられた大切な知恵です。
しかし、新しい状況に出会ったとき、以前の理解をそのまま当てはめるだけでは十分でないことがあります。
そこで智慧が働きます。
今回は本当に以前と同じなのか。
自分は何を根拠にこう判断しているのか。
以前には役に立った見方が、今も役に立つのか。
こうした問いによって、自分が持っている答えそのものを、もう一度見直すことができます。
だから、智慧とは、正しい答えをたくさん持つことよりも、自分が持っている答えそのものを問い直せることに関わっています。
問い直した結果、以前と同じ答えになることもあります。
その場合でも、ただ習慣的に同じことを繰り返したのではなく、今の現実を見たうえで、もう一度その答えを選び直したことになります。
問いを深めるということは、いつまでも決めないことではありません。
必要なときには決めなければなりません。
けれども、その決断を、自分の見方だけに閉じたものではなく、別の可能性にも目を向けたうえでの選択にしていく。
そこに、智慧が自律を深める一つの意味があります。
経験によって、見方そのものが変わることがある
経験は、知識や技術を増やすだけではありません。
ときには、それまで当然だと思っていた見方そのものを変えることがあります。
自分では正しいと思ってしたことが、相手には望まれていなかった。
よかれと思って関わったことが、かえって相手を苦しめていた。
失敗だと思っていた出来事が、後から振り返ると、自分にとって大切な転機になっていた。
そのような経験に出会うと、自分はなぜあのときそう考えたのか、何が見えていて、何が見えていなかったのかと、自分の見方そのものを振り返ることがあります。
そこでは、経験した出来事について学ぶだけではなく、その出来事をどう見ていた自分自身についても学んでいます。
そして、自分の前提に気づくことで、同じような現実に出会ったときの見え方が少し変わることがあります。
この意味で、経験は智慧の大切なきっかけになります。
ただ経験を重ねるだけではなく、その経験によって、自分の見方まで問い返される。
そこに、経験が生き方を深める一つの道があります。
智慧は、自律と調和の働き方を深める
ここまで考えてきた智慧は、自律や調和とは別の場所で働くものではありません。
むしろ、自律や調和が実際の生の中でどう働いているのかを問い直し、その働き方を深めるものです。
自律が働くと、私たちは、
「自分はこうしたい。」
と考え、選び、決断します。
そこに智慧が働くと、自分はなぜそうしたいのか、この判断を支えている前提は何なのか、自分にはどの可能性が見えていないのかを考えることができます。
すると、自律は、単に自分の意思を強く持つことではなく、自分自身の見方を問い直したうえで、それでも自分として選ぶ働きへと深まります。
調和についても同じです。
相手を大切にしようとするとき、
「相手はこうしてほしいはずだ。」
と思うことがあります。
けれども、そこに智慧が働けば、自分は本当に相手の望みを理解しているのか、相手のためと思いながら自分の価値観を押しつけていないかを問い直すことができます。
すると、調和も、ただ相手に配慮することから、相手を簡単には分かったことにせず、違いを抱えたまま関係を生きる働きへと深まっていきます。
第4章では、自律と調和は互いの働き方を変えると考えました。
そこに智慧が加わることで、その変化を支えている自分の見方そのものまで、問い直せるようになります。
だから智慧が深まるということは、迷わなくなることではありません。
自分が正しいかどうかを、いつでも確実に判断できるようになることでもありません。
むしろ、以前なら見えなかった複雑さが見えるようになり、簡単には決められなくなることさえあります。
それでも、見えていないものがあることを含めて現実を捉えながら、自分なりに応答していく。
そこに、智慧が自律と調和を支える意味があります。
智慧とは、見方を問い直し続ける働きである
ここまで考えてくると、智慧は、たくさんのことを知っていることだけでは捉えられないことが分かります。
知識も経験も、智慧にとって大切です。
けれども、それらを持っているからこそ、自分の見方に確信を持ちすぎることもあります。
智慧が働くと、
「自分には、今こう見えている。」
という理解と、
「現実は、必ずこうである。」
という断定の間に、少し余地が生まれます。
その余地があるから、他者の話を聞くことができます。
新しい経験によって、自分の判断を変えることもできます。
「分からない」と認めながら、それでも考え続けることができます。
智慧とは、すべてを疑うことでも、判断を避けることでもありません。
自分なりに現実を捉え、必要なときには決断しながらも、その見方を絶対視しないことです。
そして、新しい経験や他者との出会いによって見えてくるものを受け取りながら、自分の理解を何度でも問い直していく。
ここでいう「より深く捉える」とは、単に情報を増やすことではなく、自分とは異なる見方や、自分にはまだ見えていない事情や可能性まで含めて、現実を捉えようとすることです。
それでも、分からないから考えることをやめるのではなく、分からなさを抱えながら、少しでも深く見ようとする。
そこに、生き方の円熟における智慧の働きがあります。
第6章
なぜ、生き方は「これしかない」に固定するのか
生き方は、経験の中でつくられていく
前章では、自分の見方やその前提を問い直す智慧について考えました。
けれども、私たちの見方や生き方は、簡単には変わりません。
そこには、これまでの経験を通して身につけてきたものがあるからです。
自分で考えて行動したことで、困難を乗り越えられた。
人に頼らず頑張ったことで、認めてもらえた。
自分の気持ちを抑えて相手に合わせたことで、関係が壊れずに済んだ。
こうした経験は、そのときの自分を支えています。
その経験から、
「困ったときほど、自分で何とかした方がよい。」
「人に迷惑をかけない方がよい。」
「自分が我慢すれば、関係はうまくいく。」
といった理解が生まれます。
そこには、実際の経験に基づく理由があります。
経験は、次に似た場面に出会ったとき、どうすればよいのかを教えてくれます。
毎回一から考えなくても、これまでに身につけた見方や行動のしかたを使うことで、私たちは日々を生きることができます。
その意味で、生き方とは、人生経験の中から少しずつ身につけてきた、現実に応答するための知恵でもあります。
大切なのは、その知恵が、変化する現実にも応じられるものであるかどうかです。
知恵が前提になると、別の可能性が見えにくくなる
あるとき、
「今回は、自分で決めた方がうまくいった。」
と経験したとします。
同じような経験を繰り返すうちに、
「自分で決めた方がよい。」
という理解が生まれます。
さらに、
「自分のことは、自分で決めるべきだ。」
となり、
やがて、
「人に頼ってはいけない。」
という前提へ変わっていくことがあります。
調和についても同じです。
「自分が譲ったことで関係がうまくいった。」
という経験が、
「関係を大切にするなら、自分が譲った方がよい。」
となり、
やがて、
「自分が我慢すればよい。」
という前提になることがあります。
ここで起きているのは、経験から生まれた理解が、そのときの状況に応じた知恵から、いつでも成り立つ前提へと変わっていくことです。
「こうしてみたら、うまくいった。」
という経験が、
「こうするのがよい。」
へ変わり、
さらに、
へ変わっていく。
すると、別の可能性が見えにくくなります。
「自分でやるしかない」と思っていれば、人に頼るという可能性が見えにくくなります。
「自分が我慢すればよい」と思っていれば、自分の考えを伝えるという可能性が選びにくくなります。
「自分はこういう人間だ」と思っていれば、それまでとは違う自分として生きる可能性が見えにくくなります。
現実の中には、まだ別の可能性が残っていることがあります。
けれども、「これしかない」という前提が強くなると、それらは選択肢として見えにくくなります。
現実は変わっても、生き方の前提は残る
身につけた生き方が今の現実に合っているあいだは、それが大きな力になります。
困ったことがあれば、自分で考え、自分で解決する。
そのやり方で長く生きてきた人にとって、それは大切な力です。
けれども、人は変わります。
身体も、他者も、関係も、置かれている状況も変わっていきます。
若い頃には、一人で頑張ることで多くのことを乗り越えられた人が、年齢や体力の変化によって、一人では抱えきれないことに出会うかもしれません。
それでも、
「自分はこういう人間だから。」
「今までこれでやってきたから。」
という前提は、簡単には変わりません。
すると、変化した現実と、変わらない生き方との間に、ずれが生まれます。
以前と同じように頑張っているのに、以前のようにはうまくいかない。
正しいと思うことを続けているのに、同じ問題が何度も起こる。
そのような経験は、自分が身につけてきた生き方と、今の現実との関係を問い直すきっかけになります。
これまでの生き方には、その時期の自分を支えてきた意味があります。
問われているのは、過去が正しかったか間違っていたかではなく、その生き方が、今の現実にも応じられるのかということです。
智慧は、「これしかない」という前提を問い直す
ここで、第5章で考えた智慧が働きます。
智慧がまず向かうのは、新しい答えではなく、自分が当然だと思っている前提です。
「自分は、なぜこうしなければならないと思っているのだろう。」
「人に頼ってはいけない」と感じているなら、それはどのような経験から身についたのか。
「自分が我慢すればよい」と思っているなら、なぜそれが当然になったのか。
こうして問い直すと、「現実はこうだ」と思っていたことが、経験の中で身につけてきた自分なりの理解だったことに気づきます。
「人に頼らず頑張る」ことで生き抜いた時期があったのなら、その生き方には意味があります。
智慧は、その生き方が生まれた背景まで含めて捉え直します。
「あのときには、それが必要だったのかもしれない。」
と理解しながら、
「では、今も同じでなければならないのだろうか。」
と問い直す。
前提が見えると、それまで「当然」だったものを、もう一度考え直せるようになります。
「これしかない」から、「これもあり得る」へ
固定から自由になるとは、これまでとは反対の生き方をすることではありません。
人に頼らず生きてきた人が、何でも人に頼るようになればよいわけではありません。
いつも相手に合わせてきた人が、今度は自分の意見だけを押し通すようになればよいわけでもありません。
自分でできるときには、自分でやる。
必要なときには、人に頼る。
相手に譲ることも、自分の意見を伝えることもできる。
関係を続けることも、必要なら距離を取ることもできる。
この変化によって、生き方には余地が生まれます。
以前と同じ生き方を選ぶこともできます。
けれども、それは「そうするしかない」からではなく、今の現実を見たうえで、「今回はそうしよう」と選ぶことになります。
第5章では、自分の見方を、一つの見方として捉え直すことが智慧の大切な働きだと考えました。
同じように、自分の生き方も、
「自分はこういう人間だから、こう生きるしかない。」
ではなく、
「自分は、これまでこう生きてきた。」
と捉え直すことができます。
この二つは、よく似ているようで大きく違います。
「自分はこういう人間だから」という理解は、これまでの生き方を、そのまま未来にも続けやすくします。
「自分はこれまでこう生きてきた」という理解には、これまでの自分を受け取りながら、その先には別の可能性があるという余地があります。
けれども、可能性が増えれば、それだけでよりよく生きられるのでしょうか。
自分には別の生き方もあると分かった。
自分の見方も絶対ではないと分かった。
他者との関係にも、いくつもの関わり方があると分かった。
それでも、どの可能性へ向かうのかは、まだ決まっていません。
そして、ここまで私たちは、主として、
「自分はどう生きるのか。」
「自分は他者とどう関わるのか。」
「自分は現実をどう見ているのか。」
という問いから、生き方を考えてきました。
では、自分の側からだけではなく、目の前にいる他者の苦しみや幸福に視点を移したとき、生き方はどのように見えてくるのでしょうか。
次章では、このことについて考えていきます。
第7章
慈悲 ― 他者の生へ、どう心を向けるのか
「自分はどう生きるか」だけで、よりよく生きられるのか
前章では、「これしかない」と固定していた生き方を一つの可能性として捉え直し、もう一度選べるものにしていく智慧について考えました。
自分が当然だと思っていた見方や生き方を問い直すことができれば、それまで見えなかった可能性が見えるようになります。
しかし、見える可能性が増えても、私たちはなお、自分を中心とした視点から、次の行動を選んでいます。
そのことは、これまで考えてきた自律・調和・智慧を振り返ると、よりはっきり見えてきます。
自律について考えたとき、中心にあったのは、「私は、自分の人生をどのように生きるのか」という問いでした。
調和について考えたときには、「私は、他者とどのように共に生きるのか」という問いが中心にありました。
智慧について考えたときにも、「私は、現実をどのように見ているのか」「私の見方には、どのような前提があるのか」と、自分自身の見方を問い直してきました。
自律では自分が中心にあり、調和では自分と他者との関係が中心にあり、智慧によってその見方を相対化しても、なおそこには、自分から世界を見ているという基本的な位置があります。
これは当然のことでもあります。
私たちは、自分以外の誰かとして生きることはできず、自分が感じ、自分が考え、自分が選びながら人生を生きているからです。
けれども、よりよく生きるという問いは、自分の生だけにとどまりません。
目の前にいる人が苦しんでいるとき、私たちは、「私はこの人とどう関わればよいだろう」と考えるだけではなく、「この人の苦しみが少しでも和らいでほしい」と願うことがあります。
大切な人が新しい道へ進もうとしているときには、自分にとって都合がよいかどうかとは別に、「この人が幸せに生きてほしい」と願うことがあります。
よりよく生きるという問いは、自分自身の生だけではなく、他者の生へも向かっていくのです。
ここに、これまでとは少し違う人間精神の働きが見えてきます。
他者を、その人自身の生を生きる主体として見る
私たちは、ふだん他者を、自分との関係の中から見ています。
「あの人は自分を助けてくれる人だ。」
「あの人は自分のことを理解してくれない。」
「あの人といると安心する。」
「あの人の言動には困らされる。」
このように、他者はしばしば、自分にとってどのような存在であるかという関係の中で捉えられています。
もちろん、他者との関係を考えるうえでは、そのような見方も必要です。
しかし、他者にも、私との関係を超えたその人自身の人生があります。
その人には、その人にしか分からない経験があり、その人なりの喜びがあり、苦しみがあり、大切にしたいものがあります。
そして、その人自身が自分の人生を生きています。
ここで、視点を少し移してみます。
「この人は、自分にとってどのような人なのか」と見るのではなく、「この人は、どのような人生を生きているのだろう」と見てみるのです。
すると、同じ人が少し違って見えてきます。
自分に厳しい言葉を向けてきた人にも、その人なりの不安や願いがあるかもしれません。
自分に頼ってばかりいるように見える人にも、その人自身が抱えている苦しさがあるかもしれません。
もちろん、相手の内面を完全に知ることはできません。
それでも、相手を自分との関係だけから見るのではなく、その人自身の生を生きる一人の主体として見ることはできます。
この視点の移動によって、問いも変わります。
「私は、この人とどう関わるか。」
という問いに加えて、
という問いが生まれてくるのです。
ここから、本書でいう慈悲について考えることができます。
慈と悲 ― 他者の幸福と苦しみに心を向ける
子どもが幸せに育ってほしいと願う。
病気になった家族が少しでも楽になってほしいと願う。
悩んでいる友人が元気になってほしいと願う。
知らない人の苦しい境遇を知って、少しでも状況がよくなればと思う。
私たちの日常には、他者の幸せを願い、苦しみが和らぐことを願う経験があります。
このような経験の中に、慈悲の働きを見ることができます。
慈悲という言葉は、「慈」と「悲」という二つの方向を含んでいます。
本書では、慈を、他者の幸福や安楽を願うこととして捉えます。
そして、悲を、他者の苦しみが和らぐことを願うこととして捉えます。
一方は、幸福が育ってほしいという方向へ向かい、もう一方は、苦しみが和らいでほしいという方向へ向かいます。
この二つに共通しているのは、視点の中心が他者の生に置かれていることです。
それは、自分の期待や都合ではなく、その人自身の生へ心を向けることです。
という願いです。
ここで、本書で考えてきた「よりよい」という言葉の範囲も広がります。
これまでは主として、「私は、どうすればよりよく生きられるのか」という問いを考えてきました。
慈悲によって他者へ心を向けると、「この人にとって、よりよく生きるとはどういうことだろう」という問いが加わります。
自分の生だけではなく、他者の生もまた、「よりよく」という方向をもって見られるようになるのです。
そこで本書では、まず慈悲を、他者の幸福・安楽を願い、その苦しみが和らぐことを願う働きとして捉えてみたいと思います。
そして、その願いは、
という問いへつながっていきます。
黄金律 ― 慈悲を行動へ移す実践原理
他者の幸せを願い、その苦しみが和らぐことを願うとき、私たちは、その願いを現実の関わりへ移そうとします。
声をかけることもあります。
話を聞くこともあります。
手を貸すこともあります。
相手のために、自分の時間や力を使うこともあります。
けれども、私たちは相手そのものになることはできません。
相手が何を感じているのか、何を望んでいるのかを、その人とまったく同じように感じることはできません。
そこで、私たちは自分自身の経験を一つの手がかりにします。
自分が苦しいときには、どのようにしてもらいたいだろう。
自分が困っているときには、何をされたらうれしいだろう。
反対に、自分なら何をされたくないだろう。
こうした考え方は、黄金律と呼ばれています。
そして、
黄金律では、他者のためにどう行動するかを考えるとき、自分自身の経験を手がかりにします。
自分が大切に扱われたいと思うから、相手も大切に扱う。
自分が傷つけられたくないと思うから、相手を傷つけないようにする。
自分が困ったときに助けてもらえればありがたいと感じるから、困っている人に手を差し伸べる。
こうして、自分自身の経験が、他者へ向かうための橋になります。
本書では、この黄金律を、慈悲の願いを現実の行動へ移すための実践原理として位置づけます。
そう考えると、慈悲には三つの要素が見えてきます。
一つは、他者の幸福・安楽を願う慈です。
もう一つは、他者の苦しみが和らぐことを願う悲です。
そして三つ目が、その願いを、自分自身の経験を手がかりに現実の行動へ移していく黄金律です。
慈と悲が他者の生へ心を向け、黄金律がその願いを現実の関わりへつないでいく。
ここまで含めて、慈悲という働きを考えることができます。
慈悲とは、他者のよりよい生を願い、行動へ向かう働きである
ここまで、自律、調和、智慧とは少し違う方向から、人間の生を見てきました。
自律では、自分の人生に自分自身が関わり続けることを考えました。
調和では、異なる他者と共に生きる関係を考えました。
智慧では、自分の見方やその前提を問い直し、別の可能性へ開かれていくことを考えました。
慈悲では、視点の中心を他者の生へ移します。
目の前の人を、自分との関係の相手としてだけではなく、その人自身の生を生きる主体として見る。
そして、その人が幸せに生きてほしいと願い、その人の苦しみが和らいでほしいと願う。
さらに、その願いを、自分ならどうしてほしいか、自分なら何をされたくないかという黄金律を手がかりに、現実の行動へ移していく。
この意味で、本書では次のように考えます。
第8章
四つの働きは、どう互いを深めるのか
黄金律だけでは、相手を理解しきれない
前章では、慈悲を行動へ移すとき、自分がしてほしいと思うことを他者にもするという黄金律が、一つの手がかりになると考えました。
自分が苦しいときに話を聞いてもらえたらうれしいと思うから、苦しんでいる人の話を聞こうとする。
自分が大切に扱われたいと思うから、相手のことも大切に扱おうとする。
このように、自分自身の経験を手がかりにすることで、私たちは、自分とは異なる他者の生へ向かうことができます。
けれども、自分がしてほしいことと、相手がしてほしいことは、いつも同じなのでしょうか。
自分は、つらいときには励ましてほしいタイプだと仮定してみてください。
しかし、相手は励まされるよりも、ただ黙って話を聞いてほしいと思っているかもしれません。
反対に、自分は、困っていてもできるだけ自分の力でやってみたいタイプだとします。
しかし、相手は誰かに手を貸してほしいと思っていることがあります。
黄金律は、自分だけを中心に生きるところから、他者へ向かうための大切な橋になります。
しかし、その橋を渡ったからといって、相手のことが分かったわけではありません。
では、自分なりに相手を思い、行動したことが、本当に相手にとってよかったのかを、私たちはどのように確かめればよいのでしょうか。
相手の反応から、自分の関わりを問い直す
私たちは、相手のためを思って何かをしても、その行動がどのように届くのかを、あらかじめ完全に知ることはできません。
よかれと思って声をかけたのに、相手が話したくなさそうにすることがあります。
手伝ったところ、「自分でやりたかった」と言われることもあります。
反対に、自分では何気なくしたことが、相手にとって大きな支えになっていたと、あとから知ることもあります。
行動した側には、自分なりの意図があります。
しかし、相手がその行動をどのように受け取るのかは、こちらの意図だけでは決まりません。
ここで私たちは、自分が願ったことと、実際に相手に起きたこととの間に、ずれが生まれることがあると気づきます。
そのずれに出会ったとき、相手の反応や、その後に起きたことを受け取れば、自分の関わりをもう一度考えることができます。
自分の関わりは、この人にはどのように届いたのだろう。
相手は、本当は何を必要としていたのだろう。
もちろん、相手が喜んだから必ずよい関わりだったとも、相手が拒んだから必ず間違っていたとも言い切れません。
それでも、相手の反応や、その後に起きたことは、自分の意図だけでは見えなかった現実を知る大切な手がかりになります。
そして、その問い直しをさらに進めると、問題は「何をしたか」だけではなく、その行動を生み出した自分の見方へ向かっていきます。
「相手のため」という自分の見方を問い直す
相手のためを思って行動したのに、思っていたようには届かなかったとき、私たちはまず、「別の方法ならよかったのかもしれない」と考えるかもしれません。
けれども、ときには、やり方だけではなく、そもそも自分が相手をどのように見ていたのかを問い直す必要があります。
なぜ、自分は、この人には助けが必要だと思ったのだろう。
なぜ、この人は励ましてほしいはずだと思ったのだろう。
なぜ、自分は、こうなった方がこの人にとって幸せだと思ったのだろう。
そこには、自分自身の経験や価値観が関わっています。
自分にとってよかったことが、そのまま相手にとってもよいとは限りません。
そこで智慧が働きます。
智慧は、まず相手の反応や、その後に起きたことを認識します。
そして、その経験を手がかりに、自分は相手をどのように見ていたのか、自分には何が見えていなかったのかを問い直します。
自分は、この人について何を知っているのか。
何をまだ知らないのか。
自分にはこう見えているが、相手には違って見えているのではないか。
こうして、「相手のため」という言葉の中に含まれていた自分の前提が、少しずつ明らかになります。
そうすると、慈悲の問いそのものも変わってきます。
「この人のために、何をしてあげればよいのか。」
という問いから、
「この人にとって、よりよく生きるとはどういうことなのだろう。」
「そのために、自分はどのように関わればよいのだろう。」
という問いへ移っていきます。
智慧と慈悲は、互いの働き方を深める
慈悲は、他者の幸福を願い、その苦しみが和らいでほしいと願うことで、私たちを他者の生へ向かわせます。
しかし、その願いだけでは、その人にとって何がよりよいのかを知ることはできません。
相手の反応や、その後に起きたことを認識し、自分の見方を問い直すことで、慈悲の働き方は少しずつ変わっていきます。
すぐに手を差し伸べることだけでなく、相手の話を聞くことや、相手自身が選ぶことを待つことも、その人のよりよい生を願う関わりになり得ます。
このとき、慈悲が弱くなったわけではありません。
むしろ、「自分が何をしてあげたいか」から、「この人にとって、どのような関わりがよりよいのだろう」へと問いが深まっています。
一方で、智慧が深まるほど、私たちは簡単には分からないことにも気づくようになります。
相手が本当に何を望んでいるのかは、完全には分からない。
今の支援が将来どのような意味をもつのかも、完全には分からない。
けれども、そこで慈悲が働くと、「分からないから関わらない」というところにはとどまりません。
完全には分からなくても、この人の苦しみが少しでも和らいでほしい。
この人が、その人自身の人生を少しでもよりよく生きられるように願う。
そのために、今の自分に何ができるのかを考え続ける。
こうして、智慧と慈悲は、互いとの関係の中で、それぞれの働き方を深めていきます。
智慧と慈悲の深まりは、自律と調和をどう変えるのか
ここまで見てきたように、慈悲から相手に関わり、その反応を受け取り、智慧によって自分の見方を問い直すことで、慈悲の働き方は深まっていきます。
そして、こうした智慧と慈悲の循環的な深まりは、自律と調和の働き方にも影響します。
自律は、自分の人生に自分自身が関わり、自分なりに選ぶ働きです。
そこに智慧と慈悲が加わると、自律は、単に「自分はどうしたいのか」だけをもとに選ぶ働きではなくなっていきます。
自分には見えていないものがあるかもしれない。
この選択は、相手の生にどのような影響を与えるだろう。
そのようなことまで含めて考えたうえで、それでも自分として選ぶ。
調和についても同じです。
調和は、自分とは異なる他者との違いを抱えながら、共に生きられる関係をつくり、育てていこうとする働きです。
そこに智慧と慈悲が加わると、調和も、ただ関係を保つことではなくなっていきます。
自分も一人の主体として生きている。
相手もまた、その人自身の生を生きている。
その違いを抱えながら、どのような関係なら、自分も相手もそれぞれの生を生きていけるのかを考える。
四つの働きは、経験を通して互いを深める
第4章では、自律と調和は、互いとの関係の中で、それぞれの働き方そのものを変えると考えました。
ここではさらに、智慧と慈悲の深まりによって、自律と調和の働き方も深まっていくことが見えてきました。
一方で、智慧と慈悲だけが、自律と調和を変えていくわけではありません。
自律によって選び、調和によって他者と関わるからこそ、新たな経験が生まれます。
その経験が、智慧と慈悲をさらに深めるきっかけにもなります。
こうして、自律・調和・智慧・慈悲は、経験の中で互いに関わりながら、その働き方を変えていきます。
ここまで見てきた四つの働きは、人間精神のすべてを四つに分類しようとするものではありません。
本書では、生き方の円熟を考える中で、自分としてどう生きるのか、異なる他者とどう共に生きるのか、自分の見方をどう問い直すのか、そして他者のよりよい生へどう心を向けるのかという四つの問いが浮かび上がってきました。
その問いに関わる働きを、自律・調和・智慧・慈悲として捉えてきたのです。
人間精神の円熟とは
人間精神の円熟とは、これら四つの働きを一つずつ完成させていくことではありません。
何がよりよいのかを完全には知らないまま、その時点で見えているものから選び、他者と関わり、その結果を経験し、そこから自分の見方や関わり方を問い直す。
そして、問い直したことを、次の選択や関わりへつなげる。
だから、円熟しても迷いがなくなるわけではありません。
相手のことを完全に理解できるようになるわけでもありません。
自分の判断がいつも正しくなるわけでもありません。
それでも、以前には見えなかったものが見えるようになり、以前には選べなかった関わり方が選べるようになり、うまくいかなかった経験から、もう一度考え直すことができます。
その余地が残されているところに、人間精神が円熟し続ける可能性があります。
第9章
円熟した精神は、社会とどうつながるのか
人は、支えられて人生を始める
ここまで本書では、自律・調和・智慧・慈悲を、一人の人間が自分の人生を生きる中で働くものとして考えてきました。
しかし、人は一人で生きているわけではなく、支え、支えられながら社会の中で生きています。
人は、生まれたときから自分の力だけで生きているわけではありません。
赤ちゃんは、自分で食べるものを用意することも、自分の身を守ることもできません。
誰かに抱かれ、食べさせてもらい、眠る場所を整えてもらいながら育っていきます。
子どもになってからも、自分でできることを少しずつ増やしながら、親や家族をはじめとする周囲の人々に支えられて成長します。
つまり、人間は、誰かに支えられることから、人生を始めます。
そして、支えを必要とするのは、人生の初めだけとは限りません。
病気になれば、一人ではできないことが増えることがあります。
身体が弱れば、生活の一部を誰かに助けてもらう必要が生まれることもあります。
老いが進めば、それまで自分でできていたことを、誰かに支えてもらうようになるかもしれません。
そう考えると、誰かに支えられることは、人間にとって特別な状態ではありません。
人生のある時期には支えられ、別の時期には自分でできることを担い、また別の時期には再び支えを必要とする。
私たちは、そのような変化を含んだ生を生きています。
では、人は成長する中で、支えられる存在からどのように変わっていくのでしょうか。
自律は、自立を内側から支える
子どもは成長するにつれて、自分でできることを増やしていきます。
自分で考える。
自分で選ぶ。
自分の行動の結果を引き受ける。
そして、自分でできることを担いながら、必要な支えも受けつつ、社会の一員として生きるようになります。
ここでは、このようなあり方を、自立と呼んでみたいと思います。
自立するためには、生活上の能力が身につくだけでは十分ではありません。
自分は何を大切にするのか。
何を選ぶのか。
どのように生きるのか。
そうしたことを、自分自身で考え、選んでいく必要があります。
ここで、第2章で考えた自律が重要になります。
自律とは、自分の人生に自分自身が関わり、自分なりに選び、その選択を自分の人生として引き受けながら生きようとする働きでした。
その意味で、社会の中で自立して生きることを、精神の側から支えている働きの一つが自律であると考えることができます。
ただし、自律と自立は同じものではありません。
自律は、人間精神の働きです。
自立は、その人が社会の中で、自分でできることを担いながら生きているあり方です。
そして、自立とは、誰にも頼らなくなることでもありません。
自立した人もまた、多くの人に支えられながら生きています。
では、その人々は、どのような関係の中で共に生きているのでしょうか。
自立した人々も、互いに支え合っている
社会では、それぞれの人が違う力や役割を担っています。
食べ物をつくる人がいます。
医療を担う人がいます。
物を運ぶ人がいます。
住宅を建てる人がいます。
一人の人間が、それらをすべて自分で担うことはできません。
自分ができることを誰かのために担い、自分にはできないことを誰かに担ってもらう。
こうして役割を分かち合うことで、私たちは互いに依存しながら社会を生きています。
そして、必要なときには助ける側にもなり、助けられる側にもなります。
このような相互的な支え合いを、ここでは互助と呼ぶことができます。
その意味では、自立と互助は反対のものではありません。
むしろ、自立した人々が、それぞれの違いや役割を認めながら支え合うことで、社会は成り立っています。
ここで、第3章で考えた調和の意味が見えてきます。
調和とは、自分とは異なる他者との違いを抱えながら、共に生きられる関係をつくり、育てていこうとする働きでした。
社会の中でも、人はそれぞれ違う力をもち、違う役割を担い、違う立場から生きています。
その違いを認めながら、互いの役割を受け取り、必要なときには支え合う。
自立した人々が、互いに支え合いながら生きる。
そこに、人間社会の一つの基本的な姿を見ることができます。
しかし、すべての人が、いつでもこの互助に同じように参加できるわけではありません。
誰もが、いつも支える側でいられるわけではない
幼い子どもは、まだ大人と同じように社会的な役割を担うことはできません。
重い病気によって、生活そのものに支えを必要としている人もいます。
老いや障害によって、それまで担っていた役割を十分には担えなくなることもあります。
そのようなときには、受け取った支えを、その場で同じように返すことができない場合があります。
互助には、互いに支え合うという相互性があります。
けれども、人間には、その相互性に十分に参加できない時期や状況があります。
だから、人間社会は、互助だけでは成り立ちません。
ここで大切なのは、支える人と支えられる人を、二つの種類の人間として分けないことです。
自分もかつては、赤ちゃんとして誰かに支えられていました。
成長すれば、誰かを支える側になることがあります。
そして、病気になったり、老いたりすれば、再び支えられる側になるかもしれません。
一人の人間が、生涯の中でその両方を経験する可能性があります。
そう考えると、支えを必要とする人がいることは、社会にとって例外的な問題ではなく、人間が生きることそのものから生まれる問題です。
では、互助だけでは支えきれないとき、その支えを誰が担うのでしょうか。
支えは、家族だけでなく、地域や社会にも担われる
最も身近なところでは、家族が支えます。
子どもを親が育てる。
病気になった家族を看病する。
高齢になった家族の生活を援助する。
家族は、人が自分だけでは生きられないときに支えを受ける、基本的な関係の一つです。
さらに、支えは家族だけに限られません。
近所の人が助ける。
地域の人々が見守る。
共同体の中で、困っている人を支援する。
このように、家族を超えた関係の中にも支えがあります。
しかし、家族や地域だけでは支えきれないこともあります。
重い病気の治療には、多くの人や資源が必要になります。
長期間の介護を、一つの家族だけで担うことが難しい場合もあります。
生活そのものを維持できなくなった人を、身近な人だけでは支えられないこともあります。
そこで、社会全体で資源を分かち合い、制度を通して支えを必要とする人を支える仕組みが必要になります。
現代社会では、このような公的な支えを、公助として考えることができます。
人間には、誰かの支えなしには十分に生きられない時期や状況があります。
そして、その支えを家族だけに委ねれば、支える側もまた支えきれなくなることがあります。
その人間の有限性を、より大きな社会の中でも引き受けようとするところに、公助の意味があります。
では、扶養や支援、公助の根底には、どのような人間精神の働きがあるのでしょうか。
支えるためには、智慧と慈悲が必要になる
支えを必要としている人に出会ったとき、その人の苦しみが少しでも和らいでほしいと思うことがあります。
その人もまた、その人自身の人生をよりよく生きられるように支えたいと思うことがあります。
ここには、第7章で考えた慈悲の働きがあります。
慈悲は、自分だけではなく、他者の苦しみや幸福に心を向け、その人のよりよい生を願う方向へ私たちを向かわせます。
けれども、第8章で考えたように、支えたいという願いだけでは、どのような支えがよいのかは決まりません。
支えることによって、その人自身が選ぶ機会を奪うこともあります。
反対に、自立を大切にしすぎることで、必要な支援まで届かなくなることもあります。
誰に支えが必要なのか。
何が必要なのか。
どこまで支えるのか。
どのように支えるのか。
本人や家族にできることは何か。
社会は何を担うのか。
限られた資源を、どのように分かち合うのか。
こうした問いに向き合うためには、智慧が必要になります。
智慧は、目の前の人が置かれている状況を捉え、自分たちの見方や前提も問い直しながら、何がよりよい支えなのかを考えます。
その二つが関わることで、扶養や支援、公助も、単に何かを与えることではなく、その人がその人自身の生を生きられるように支える営みへと深まっていきます。
四つの働きは、社会の中にも現れている
ここまで考えてくると、第8章まで個人の生き方として考えてきた四つの働きが、社会のあり方ともつながっていることが見えてきます。
自律によって、人は自分の人生に関わり、自分でできることを担いながら、社会の一員として自立して生きようとします。
調和によって、自立した人々は、違いをもつ者どうしとして役割を分かち合い、互いに支え合います。
そして、互助だけでは十分に支えられない人がいるとき、慈悲によってその人のよりよい生へ心を向け、智慧によってどのような支えが必要なのかを問いながら、扶養や支援、公助を考えていきます。
この関係を簡単にまとめるなら、
と考えることができます。
もちろん、これは四つの働きと社会のあり方を一対一に分けるための分類ではありません。
自立にも、調和や智慧が必要です。
互助にも、自律や慈悲が関わります。
公助にも、支えられる人の自律を尊重し、関係を大切にする調和が必要になります。
それでも、この見取り図によって、四つの働きが個人の生き方だけにとどまらず、人々が共に生きる社会の中でも意味をもっていることが見えてきます。
人間精神の円熟は、社会へ開かれている
ここまで本書では、人間精神の円熟を、一人の人間がどのようによりよく生きるのかという問いから考えてきました。
けれども、その円熟は、個人の中だけで完結するものではありません。
自律・調和・智慧・慈悲の働きは、社会の中で、自立・互助・扶養・支援・公助といったあり方にもつながっています。
一人ひとりがどのように自律し、どのように他者と調和し、どのように現実を見つめ、どのように他者のよりよい生へ心を向けるのか。
その一つひとつが、人々がどのような社会をつくるのかにもつながっています。
しかし、社会においても、何がよりよいのかは簡単には決まりません。
どこまで自立を求めるのか。
どこまで互いに助け合うのか。
どこから社会全体で支えるのか。
限られた資源を、誰に、どのように分かち合うのか。
そこにもまた、簡単には答えの出ない問いがあります。
終章
迷いながら、円熟し続ける
人間の有限性は、最後までなくならない
本書では、人間は、何がよりよいのかを完全には知ることのできない存在である、というところから考え始めました。
私たちは、未来に何が起こるのかを完全に知ることはできません。
自分の選択が、どのような結果につながるのかも、あらかじめすべて見通すことはできません。
他者が何を感じ、何を望んでいるのかを、その人とまったく同じように理解することもできません。
そして、自分自身についてさえ、いつも十分に分かっているわけではありません。
それでも、人生は続いていきます。
その時点で見えているものをもとに、何かを選び、誰かと関わり、その結果を引き受けながら生きていきます。
本書では、そのような有限な人間が、それでもよりよく生きようとするときに働くものとして、自律・調和・智慧・慈悲について考えてきました。
けれども、この四つの働きが深まっても、人間の有限性がなくなるわけではありません。
自律が深まっても、いつも正しい選択ができるようになるわけではありません。
調和が深まっても、他者との違いや葛藤がなくなるわけではありません。
智慧が深まっても、すべてを理解できるようになるわけではありません。
慈悲が深まっても、自分の願いがいつも相手のためになるとは限りません。
むしろ、自分には分からないことがあり、できないことがあり、間違うこともあると知りながら、それでもよりよく生きようとするところに、人間精神の円熟があります。
四つの働きがあっても、迷いはなくならない
人生経験を重ねるほど、かえって簡単には決められなくなることがあります。
自分だけでなく、相手にもその人自身の人生があることが見えてくる。
一つの選択が、周囲にどのような影響を与えるのかも見えてくる。
今よいと思うことが、長い目で見てもよいとは限らないことにも気づく。
見えるものが増えるほど、迷いが深くなることさえあります。
自律は、その迷いの中でも、自分の人生に自分自身が関わり、自分なりに選ぶことを支えます。
調和は、自分とは異なる他者と、違いを抱えたまま共に生きることを支えます。
智慧は、自分の見方や前提を問い直し、自分にはまだ見えていないものがあることを含めて現実を捉えようとします。
慈悲は、自分だけではなく、他者の苦しみや幸福に心を向け、その人のよりよい生を願う方向へ私たちを向かわせます。
この四つの働きは、迷いをなくすためのものではありません。
むしろ、迷いの中でも、
自分は何を大切にしたいのか。
相手は何を大切にしているのか。
自分には何が見えていないのか。
自分と他者にとって、どのような生き方がよりよいのか。
そうしたことを問い続けるための働きだと考えることができます。
経験するたびに、生き方は問い直される
私たちは、経験を通して、自分なりの生き方をつくっていきます。
自分で決めたことでうまくいった。
人に頼ったことで助けられた。
相手に譲ったことで関係が保たれた。
自分の思いを伝えたことで、関係が変わった。
そうした経験が積み重なり、「自分はこう生きればよい」という形が少しずつ生まれてきます。
しかし、その生き方が、いつの間にか「これしかない」という前提になることがあります。
そのとき、新しい経験が、その前提を揺らします。
これまでうまくいっていた方法が、今回はうまくいかなかった。
よかれと思ってしたことが、相手には望まれていなかった。
自分が正しいと思っていたことに、別の見方があることを知った。
そのような経験に出会うことで、それまで当然だと思っていた生き方を、もう一度問い直すことができます。
選ぶ。
関わる。
経験する。
問い直す。
そして、もう一度選ぶ。
問い直した結果、以前と同じ選択をすることもあります。
けれども、他の可能性を知ったうえで選び直したとすれば、その選択の意味は以前とは少し違っています。
人間精神の円熟は、一直線に進む成長とは少し違います。
何かを一つずつ身につけ、完成へ近づいていくのではありません。
「よりよく生きる」の意味も変わっていく
経験によって変わるのは、どう生きるのかだけではありません。
何を「よりよい」と考えるのか、その理解そのものも変わっていきます。
若い頃には、自分の力で道を切り開くことが、何より大切に思えることがあります。
その経験を重ねる中で、他者と力を合わせることの価値に気づくことがあります。
人との関係を大切にすることが何よりよいと思っていた人が、自分自身の声を失わないことの大切さに気づくこともあります。
困っている人を助けることがよいと思っていた人が、相手を信じて待つことや、任せることの意味に気づくこともあります。
以前には大切だと思わなかったことに、あとから大きな価値を感じることもあります。
反対に、以前には何より大切だと思っていたことを、少し手放せるようになることもあります。
つまり、円熟するのは、行動の仕方だけではありません。
だから、「よりよく生きる」という言葉にも、最初から決まった一つの答えがあるわけではありません。
どうすれば、よりよく生きられるのか
では、私たちは、どうすればよりよく生きることができるのでしょうか。
本書で考えてきたのは、その問いに向き合うために、自分の人生を生きること、他者と共に生きること、自分の見方を問い直すこと、そして他者のよりよい生へ心を向けることが大切だということです。
けれども、この四つを大切にすれば、それだけでよりよく生きられるというわけではありません。
その時々の現実の中で、自分なりに選び、他者と関わり、その結果を経験として受け取り、そこから自分の見方や関わり方を問い直していく。
そして、問い直したことを、次の選択や関わりへつなげていく。
そうした経験を重ねる中で、自分にとって「よりよく生きる」とは何なのかも、少しずつ変わっていきます。
そこに、本書で考えてきた生き方の円熟の一つの姿があります。
円熟すると、人生の味わい方も変わる
ここまで本書では、主として、どのように生きるのかという意味での円熟を考えてきました。
けれども、生き方が深まるとき、変わるのは選択や行動だけなのでしょうか。
人生を長く生きていると、以前には気づかなかったものの価値が見えてくることがあります。
何気なく一緒に過ごした時間が、あとになってかけがえのないものだったと気づく。
当たり前だと思っていた人の存在を、失って初めて深く感じる。
若い頃には遠回りにしか見えなかった経験が、振り返ると自分の人生に欠かせないものだったと思える。
苦しかった経験そのものを、よかったことに変える必要はありません。
けれども、その経験を通して、自分が何を大切にしていたのかに気づくことがあります。
そう考えると、円熟とは、よりよく選び、よりよく関わることだけではないのかもしれません。
目の前にあるものの価値を感じ取る。
人とのつながりを受け取る。
自分が生きてきた時間を振り返り、その意味を感じる。
そのように、人生をより深く味わって生きることもまた、人間精神の円熟とつながっているのではないでしょうか。
本書では、生き方の円熟に焦点を当ててきました。
しかし、その先には、よりよく生きることと、人生を深く味わうことがどのようにつながるのかという、もう一つの問いが残されています。
この問いは、ここで答えを出すのではなく、これから考えていくための問いとして残しておきたいと思います。
人は、迷いながら、円熟し続ける
人生には、最後まで答えの出ない問いがあります。
自分はどう生きるのか。
他者とどう関わるのか。
何がよりよいのか。
その答えを、私たちは完全には知ることができません。
それでも、その時点で見えているものから選び、他者と関わり、その経験からまた考えていきます。
人生は変わり続けます。
自分も変わります。
他者も変わります。
関係も変わります。
だから、生き方もまた、そのときどきの現実に応じて問い直されます。
その過程で、以前には見えなかったものが見えるようになることがあります。
以前には選べなかった生き方を選べるようになることがあります。
そして、以前には気づかなかった人生の価値を、少し深く味わえるようになることもあるでしょう。
人間精神の円熟には、完成形があるわけではありません。
迷いは、最後までなくならないかもしれません。
けれども、迷いながら問い、選び、関わり、また問い直すことはできます。
その営みの中で、生き方は少しずつ深まり、人生の見え方も変わっていきます。
補遺の目的
本編では、自律・調和・智慧・慈悲という四つの働きを通して、生き方の円熟について考えてきました。
そして、人間精神の円熟を、完成された状態に到達することではなく、経験を通して自分の見方や関わり方を問い直しながら、生き方を深め続けていく過程として捉えました。
ここからは、本編で考えてきた四つの働きそのものに、もう少し近づいてみたいと思います。
自律は、どのように成熟していくのでしょうか。
調和は、どのように成熟していくのでしょうか。
智慧が深まると、人はどのように自在なあり方へ開かれていくのでしょうか。
そして慈悲は、人との出会いの中で、どのように具体的な姿をとるのでしょうか。
以下の四つの補遺では、それぞれの働きを別の角度から見つめながら、その成熟や深まりをたどっていきます。
自律では、熟慮と実行。
調和では、受容と発信。
智慧では、一つの見方や応答に閉じない自在。
慈悲では、人との出会いの中に現れる観音の働き。
こうして四つの働きを具体的に見ていくことで、本編で考えてきた生き方の円熟が、実際にはどのような変化として現れるのかを、もう一歩深く考えてみたいと思います。
これらの補遺は、本編の結論を書き換えるものではありません。
本編で考えてきた人間精神の円熟を、さらに別の角度から照らし、その深まりを考えるための四つの考察です。
補遺1
自律は、どのように成熟するのか
はじめに:自律は、強くなれば成熟するのか
本書では、自律を、自分では選べないものを抱えながら、それでも自分の人生に自分自身が関わり続ける働きとして考えてきました。
では、その自律が成熟するとは、どういうことなのでしょうか。
人を見ていると、十分に考えてから動くことを得意とする人がいます。
一方で、ある程度の見通しが立てば、まず動いてみることを得意とする人もいます。
どちらも、自律の大切な働きです。
けれども、どちらか一方を使うことが多くなると、自律の働かせ方にも偏りが生まれます。
そこでここでは、自律を、認知と行動という二つの側面から考えながら、自律がどのように成熟していくのかを見ていきたいと思います。
自律には、認知と行動の二つの側面がある
自分で選ぶためには、まず、自分が何を考え、何を大切にし、どのような状況に置かれているのかを捉える必要があります。
自分が何を望んでいるのかわからなければ、自分で選ぶことはできません。
どのような可能性があり、それぞれにどのような意味や結果があるのかわからなければ、判断することも難しくなります。
この意味で、自律には、認知の側面があります。
ここでいう認知とは、自分の状態や価値、選択肢、見通しなどを捉える働きを指します。
自分が何を考えているのかを整理すること。
自分にとって何が大切なのかを見いだすこと。
いくつかの可能性を考え、比較すること。
これから起こりうることを見通すこと。
経験したことを振り返り、その意味を捉え直すこと。
こうした働きによって、私たちは、自分がどこへ向かいたいのか、何を選びたいのかを少しずつ明らかにしていきます。
しかし、認知するだけでは、自律は現実の生き方にはなりません。
考えたことをもとに判断し、目的を定め、選択し、決断し、実際に行動する必要があります。
始めたことを工夫しながら続け、その結果を自分の人生の経験として受け取ることも必要です。
この意味で、自律には、行動の側面があります。
自律は、この二つが結びつくことで、現実の中で働くことができるのです。
人は、熟慮か実行のどちらかを得意としやすい
人は誰でも、認知と行動の両方を使っています。
実行を得意とする人も、何も考えずに動いているわけではありません。
目的を考え、必要な情報を集め、結果を予測し、そのうえで判断しています。
違いが現れるのは、行動へ移る前に、どこまで情報を集め、可能性を比較し、不確実性を減らそうとするかです。
十分に考えてから動くことを得意とする人がいます。
そのような人は、判断する前に必要な情報を集め、細かな条件を確認し、複数の可能性を比較します。
それぞれの選択肢の長所や短所を考え、起こりうる展開を見通しながら、判断の妥当性を高めようとします。
ここでは、このような傾向を、熟慮優位と呼んでみます。
熟慮優位の人は、丁寧に考え、判断の精度を高めることができます。
その一方で、まだ見落としていることがあるのではないか、ほかにも検討すべき可能性があるのではないかと考え続け、行動へ移るまでに時間がかかることがあります。
もう少し情報が必要ではないか。
ほかに選択肢はないだろうか。
条件によって結果が変わることはないだろうか。
そう考えているうちに、動く機会を逃してしまうこともあります。
一方で、ある程度の情報と見通しがあれば、比較的早く行動へ移ることを得意とする人もいます。
そのような人は、目的や期待する結果を考えたうえで、判断に必要な重要な情報がそろったと感じれば、細部まで確かめきらなくても動き始めます。
そして、実際に行動した結果を、新たな情報として受け取ります。
ここでは、このような傾向を、実行優位と呼んでみます。
実行優位の人は、決断や行動が速く、物事を前へ進める力を持っています。
その一方で、判断に必要な情報を細部まで集めたり、いくつもの可能性を十分に比較したりする前に、行動へ移ることがあります。
ほかにどのような選択肢があるのか。
さらに確かめておくべき条件はないか。
細かな違いによって、判断は変わらないか。
そうしたことを十分に詰めるよりも、ある程度の見通しが立ち、期待する結果につながると判断すれば、まず動いてみることを選びやすいのです。
熟慮優位と実行優位の違いは、考える人と考えない人の違いではありません。
そこに、両者の大きな違いがあります。
偏りは、どのように形づくられるのか
こうした違いには、その人なりの理由があります。
生まれ持った気質も関係するでしょう。
慎重に考えてから動くことを好む人もいれば、動きながら考えることを好む人もいます。
育ってきた環境や教育も影響します。
間違えないことを重視されて育った人は、十分に考えてから行動することを大切にするかもしれません。
反対に、まずやってみることや、失敗から学ぶことを評価されてきた人は、行動することをためらわなくなるでしょう。
さらに大きいのは、これまでの成功体験です。
深く考えることで問題を解決してきた人は、次の問題に出会ったときにも、さらに考えようとします。
早く動くことで成果を得てきた人は、次の場面でも、まず行動することを選びやすくなります。
人は、自分がうまくいった方法を繰り返し使います。
そして、使えば使うほど、その側の働きはさらに磨かれていきます。
その意味で、偏りは単なる弱点ではありません。
偏っていても、社会では成功できる
だから、熟慮か実行のどちらかに偏っていることは、それだけで未熟さを意味するわけではありません。
むしろ社会では、一方の強みが際立っていることによって、高く評価されることがあります。
熟慮に優れた人は、複雑な問題を分析し、細かな違いを見分け、複数の可能性を比較しながら、先のことを考えることができます。
研究や専門的判断、企画や戦略などの場面では、こうした力が大きな価値を持ちます。
一方、実行に優れた人は、目的を見定め、必要なところまで考えたら、素早く決断して物事を前へ進めることができます。
経営や営業、起業、現場運営などの場面では、こうした力が大きな成果につながります。
本人に足りない側面を、周囲の人が補ってくれることもあります。
深く考える人の構想を、実行力のある人が現実に移すことがあります。
すぐに動く人のそばで、慎重な人が条件やリスクを確認し、判断を支えることもあります。
このため、一方に偏っていても、社会の中では十分に成功することができます。
ここから、一つの大切なことが見えてきます。
社会は、その人が成果を生み出した強みを評価します。
しかし、自律の成熟は、その得意なやり方だけに依存せず、必要に応じて別の働きも使えるようになることに関わっています。
得意なやり方には、やがて限界が現れる
人生を重ねていくと、自分の得意なやり方だけでは対応できない場面に出会います。
熟慮を得意としてきた人も、いつか、十分にわからないまま決めなければならない場面に出会います。
どれだけ情報を集めても、未来の結果を完全に知ることはできません。
いくつもの可能性を比較しても、どれが正解なのか決めきれないことがあります。
それでも、時間は進み、何かを選ばなければならないことがあります。
そのとき、考え続けることだけでは、前へ進むことができません。
一方、実行を得意としてきた人も、いつか、動くだけでは解決しない問題に出会います。
すぐに行動しても、思ったような結果が出ない。
別の方法を試しても、同じ問題が繰り返される。
行動を重ねるほど、手戻りが増えることもあります。
そのようなときには、動き続けるのではなく、一度立ち止まる必要が生まれます。
これまで見落としていた情報はなかったか。
ほかの選択肢を十分に検討しただろうか。
条件の違いが、結果に影響していなかったか。
もう少し比較し、吟味してから判断した方がよかったのではないか。
そうしたことを考える必要が出てきます。
その経験によって、これまであまり使ってこなかった働きの必要性が見えてくるのです。
反対側の働きを取り込む
熟慮を得意としてきた人は、不確実さが残っていても判断することを学びます。
すべての情報がそろうまで待つのではなく、どこまで分かれば行動できるのかを見極める。
十分にはわからなくても、いったん決めてみる。
そして、行動してみる。
すると、考えているだけでは得られなかった情報が、現実から返ってきます。
実際に何が起こるのか。
予想していたことと、どこが違うのか。
行動したことで、新たに何が見えてくるのか。
行動そのものが、新たな情報を得る機会になります。
一方、実行を得意としてきた人は、行動する前の検討を厚くすることを学びます。
必要な情報を、もう少し集めてみる。
一つの方法だけでなく、ほかの可能性も並べてみる。
それぞれの条件や違いを比較する。
すぐに動くのか、もう少し情報を集め、比較してから動くのかを考える。
そして、行動したあとには、その結果を振り返ります。
何がうまくいったのか。
どこに見落としがあったのか。
次に同じような場面に出会ったら、何を確かめてから動けばよいのか。
こうして、これまであまり使ってこなかった反対側の働きが、少しずつ育っていきます。
けれども、熟慮を得意としてきた人が、実行優位の人になる必要はありません。
実行を得意としてきた人が、熟慮優位の人になる必要もありません。
大切なのは、もともとの得意な働きを失うことではありません。
おわりに:自律が成熟すると、熟慮と実行を往復できる
反対側の働きを取り込むと、自律のあり方が少しずつ変わってきます。
考える。
判断する。
行動する。
結果を受け取る。
振り返る。
そして、また考える。
熟慮することで、行動の方向や条件が見えてきます。
行動することで、熟慮だけではわからなかった現実に出会います。
その結果を受け取り、振り返ることで、次の判断や行動も変わっていきます。
このように、熟慮と実行は、一方からもう一方へ進んで終わるものではなく、互いを行き来しながら自律を深めていきます。
成熟した自律とは、熟慮と実行を半分ずつ使うことではありません。
熟慮を得意としてきた人は、成熟しても、深く考えることを得意とするでしょう。
実行を得意としてきた人も、素早く決断し、行動することを得意とするでしょう。
成熟することで、すべての人が同じようになるわけではありません。
違いは残ります。
その人らしい強みも残ります。
変わるのは、その強みだけに閉じなくなることです。
熟慮優位の人は、「ここから先は、動いて確かめよう」と切り替えられるようになります。
実行優位の人は、「今回は、もう少し確かめてから動こう」と立ち止まれるようになります。
そして、行動した結果を受け取り、必要ならもう一度考え、次の行動を変えていく。
そうした往復の中で、自分の人生への関わり方も、その都度調え直されていきます。
補遺2
調和は、どのように成熟するのか
はじめに:調和は、相手に合わせるほど成熟するのか
本書では、調和を、自分とは異なる他者との違いを抱えながら、共に生きられる関係をつくり、育てていこうとする働きとして考えてきました。
相手の話を聞く。
相手が何を大切にしているのかを知ろうとする。
自分とは違う考えがあることを受け止める。
そして、必要に応じて自分から相手に働きかけながら、関係をつくっていく。
こうした働きがあるからこそ、違う者どうしが、それでも共に生きていくことができます。
しかし、調和が成熟するとは、調和を求める力が単純に強くなることなのでしょうか。
人を見ていると、相手の話を聞き、その思いや反応を受け取ることを得意とする人がいます。
一方で、自分から声をかけ、励まし、支え、相手や関係に働きかけることを得意とする人もいます。
どちらも、調和の大切な働きです。
けれども、どちらか一方の働き方に偏ると、人との関わり方にも一定の特徴が生まれます。
そこでここでは、調和を、受容と発信という二つの側面から考えながら、調和がどのように成熟していくのかを見ていきたいと思います。
調和には、受容と発信の二つの側面がある
人と共に生きるためには、まず、相手から来るものを受け取る必要があります。
相手が何を話しているのか。
何を思っているのか。
何を望み、何に困っているのか。
自分とはどこが違うのか。
そうしたものを、すぐに自分の考えで判断するのではなく、いったん受け取ろうとする働きがあります。
ここでは、この働きを受容と呼びます。
受容とは、何でも相手の言うとおりにすることではありません。
相手の言葉や思い、その人なりの違いを、関係の中に迎え入れることです。
受容によって、相手はその人自身として、関係の中に現れることができます。
しかし、相手から来るものを受け取るだけでは、関係は十分には育ちません。
自分から声をかける。
感謝を伝える。
励ます。
困っているときに手を差し伸べる。
一緒に何かをしようと提案する。
関係が滞っているときに、自分から関わり直してみる。
このように、自分から相手や関係へ向かって働きかける方向もあります。
ここでは、この働きを発信と呼びます。
発信とは、単に自分の意見を表明することではありません。
自分から相手や関係へ働きかけ、共に生きられる関係を育てようとすることです。
調和は、この二つが結びつくことで、現実の関係の中で働くことができるのです。
人は、受容か発信のどちらかを得意としやすい
人は誰でも、受容と発信の両方を使っています。
発信を得意とする人も、相手の話をまったく聞かないわけではありません。
受容を得意とする人も、自分から何も働きかけないわけではありません。
違いが現れるのは、関係に入るときに、どちらの方向から関わりやすいかです。
相手から来るものを受け取ることを得意とする人がいます。
そのような人は、相手の話をよく聞き、相手がどう思っているのかを気にかけ、表情や反応にもよく目を向けます。
すぐに自分の言葉を返すのではなく、相手が十分に話せるように待つこともできます。
ここでは、このような傾向を、受容優位と呼んでみます。
受容優位の人は、相手が安心して話せる場をつくり、相手の違いを関係の中に受け入れることを得意としています。
その一方で、相手を受け取ることを優先するあまり、自分から働きかけることを控えることがあります。
相手はどう思うだろうか。
ここで言ったら困らせないだろうか。
自分から動くより、もう少し様子を見た方がよいのではないか。
そう考えているうちに、自分の思いや希望を伝える機会を逃してしまうことがあります。
一方で、自分から相手や関係へ働きかけることを得意とする人もいます。
そのような人は、自分から声をかけ、相手を励まし、感謝を伝え、困っている人がいれば何か力になろうとします。
関係がうまくいっていないと感じれば、自分から話しかけたり、一緒にできることを提案したりします。
ここでは、このような傾向を、発信優位と呼んでみます。
発信優位の人は、自分から相手に働きかけ、人と人との間に新しい動きを生み出すことを得意としています。
その一方で、相手のためによいと思うことを積極的にしようとするあまり、相手の思いや希望を確かめる前に、自分がしてあげたいことを先にしてしまうことがあります。
元気づけてあげたい。
何か力になってあげたい。
自分にできることをしてあげたい。
そうした思いから、自分では相手のためにしているつもりでも、相手がそれを望んでいるのかを確かめないまま、働きかけてしまうことがあります。
相手から受け取るより先に、自分から何かをしてあげようとしてしまうのです。
受容優位と発信優位の違いは、相手を大切にする人と、自分を大切にする人の違いではありません。
どちらも、相手との関係を大切にしています。
そこに、両者の大きな違いがあります。
偏りは、どのように形づくられるのか
こうした違いにも、その人なりの理由があります。
生まれ持った気質も関係するでしょう。
人の話をじっくり聞くことを好む人もいれば、自分から人に関わることを好む人もいます。
育ってきた環境や教育も影響します。
周囲の気持ちを察し、相手に配慮することを大切にされて育った人は、人から来るものを丁寧に受け取るようになるかもしれません。
反対に、自分から挨拶をすることや、人を助けること、人との関係を積極的につくることを評価されてきた人は、自分から働きかけることをためらわなくなるでしょう。
さらに大きいのは、これまでの人間関係での成功体験です。
相手の話をよく聞くことで信頼され、相談されることが多かった人は、次の関係でも、まず相手を受け取ろうとします。
自分から声をかけたり、励ましたり、助けたりすることで相手との関係がよくなってきた人は、次の場面でも、まず働きかけようとします。
人は、自分がうまくいった関わり方を繰り返し使います。
そして、使えば使うほど、その側の働きはさらに磨かれていきます。
その意味で、偏りは単なる弱点ではありません。
偏っていても、社会では評価される
だから、受容か発信のどちらかに偏っていることは、それだけで未熟さを意味するわけではありません。
むしろ社会では、一方の強みが際立っていることによって、高く評価されることがあります。
受容に優れた人は、人の話を丁寧に聞き、相手の思いや反応を受け取り、場の雰囲気を感じながら関係を保つことができます。
医療や教育、相談、支援、調整などの場面では、こうした力が大きな価値を持ちます。
話しやすい。
よく分かってくれる。
安心して相談できる。
そのように評価されることも多いでしょう。
一方、発信に優れた人は、自分から人に声をかけ、周囲を励まし、人と人をつなぎ、必要なときには自分から助けの手を差し伸べることができます。
職場や地域、さまざまな集まりの中で、場をつくり、人をつなぎ、協力を生み出す場面では、こうした力が大きな価値を持ちます。
気にかけてくれる。
面倒見がよい。
人とのつながりをつくってくれる。
そのように評価されることもあるでしょう。
本人に足りない側面を、周囲の人が補ってくれることもあります。
よく話を聞く人のそばで、別の人が必要な働きかけをすることがあります。
自分から積極的に働きかける人のそばで、別の人が相手の反応を丁寧に受け取ることもあります。
このため、一方に偏っていても、社会の中では十分に評価されることがあります。
ここから、一つの大切なことが見えてきます。
社会は、その人が関係の中で発揮してきた強みを評価します。
しかし、調和の成熟は、その得意な関わり方だけに依存せず、必要に応じて別の働きも使えるようになることに関わっています。
得意な関わり方には、やがて限界が現れる
人生を重ねていくと、自分の得意な関わり方だけでは対応できない関係に出会います。
受容を得意としてきた人も、いつか、相手を受け取るだけでは応じきれない関係に出会います。
相手に合わせ続けた結果、自分が苦しくなることがあります。
本当は違うと思っていても何も言わないことで、自分の思いが相手に伝わらないこともあります。
関係を壊したくないと思って黙っていたことが、かえって二人の距離を広げてしまうこともあります。
そのようなときには、相手を受け取るだけではなく、自分から関係へ働きかける必要が生まれます。
自分はどう思っているのか。
何を望んでいるのか。
何ならできるのか。
何はできないのか。
それを伝えなければ、相手には分からないことがあります。
一方、発信を得意としてきた人も、いつか、自分から働きかけるだけでは関係がうまくいかない場面に出会います。
元気づけようと声をかけても、相手は静かにしてほしかった。
助けようと思って手を出したら、相手は自分でやりたかった。
よかれと思っていろいろなことをしても、かえって相手が距離を取るようになった。
そのようなことがあります。
そこでは、自分が何をしてあげたいのかよりも、相手が何を思い、何を望んでいるのかを受け取る必要があります。
すぐに働きかけるのではなく、いったん待つ。
相手が話すのを聞く。
こちらがしてあげたいことと、相手が望んでいることが同じなのかを確かめる。
そうしたことが必要になります。
その経験によって、これまであまり使ってこなかった働きの必要性が見えてくるのです。
反対側の働きを取り込む
受容を得意としてきた人は、自分から働きかけることを学びます。
相手がどう思うかを考えるだけでなく、自分がどう思っているのかも伝えてみる。
感謝しているなら、その気持ちを言葉にする。
困っている相手に、自分から声をかける。
関係がうまくいっていないのであれば、相手が話しかけてくるのを待つだけではなく、自分から関わってみる。
すると、受け取っているだけでは見えなかったものが、関係の中から返ってきます。
自分の思いを伝えたことで、相手も自分の気持ちを話してくれることがあります。
こちらから働きかけたことで、止まっていた関係がもう一度動き始めることもあります。
一方、発信を得意としてきた人は、働きかける前に受け取ることを学びます。
すぐに励ますのではなく、まず話を聞いてみる。
助ける前に、相手が何を望んでいるのかを確かめる。
何かを提案したあとには、相手の反応を待つ。
自分から動くことができても、あえて動かずに見守る。
すると、自分から何かをしてあげようとしているだけでは見えなかったものが見えてきます。
相手には、相手なりの考えがあります。
こちらがよいと思ったこととは違うことを望んでいる場合もあります。
そして、相手自身が考え、選び、動くための時間が必要なこともあります。
こうして、これまであまり使ってこなかった反対側の働きが、少しずつ育っていきます。
けれども、受容を得意としてきた人が、発信優位の人になる必要はありません。
発信を得意としてきた人が、受容優位の人になる必要もありません。
大切なのは、もともとの得意な関わり方を失うことではありません。
おわりに:調和が成熟すると、受容と発信を往復できる
反対側の働きを取り込むと、調和のあり方が少しずつ変わってきます。
聞く。
受け取る。
働きかける。
相手の反応を受け取る。
関わり方を調え直す。
そして、必要ならもう一度働きかける。
相手を受け取ることで、どのように働きかければよいのかが見えてきます。
自分から働きかけることで、相手から新たな反応が返ってきます。
その反応を受け取ることで、次の関わり方も変わります。
このように、受容と発信は、一方からもう一方へ進んで終わるものではなく、互いを行き来しながら関係を育てていきます。
成熟した調和とは、受容と発信を半分ずつ使うことではありません。
受容を得意としてきた人は、成熟しても、人の話を丁寧に聞くことを得意とするでしょう。
発信を得意としてきた人も、自分から人へ働きかけることを得意とするでしょう。
成熟することで、すべての人が同じようになるわけではありません。
違いは残ります。
その人らしい強みも残ります。
変わるのは、その強みだけに閉じなくなることです。
受容を得意とする人が、必要なときには自分から働きかける。
発信を得意とする人が、必要なときには相手から受け取り、待つ。
そうした往復の中で、違う者どうしが共に生きられる関係は、その都度つくられていきます。
補遺3
智慧は、どのように自在へと深まるのか
はじめに:智慧が深まった先には、何があるのか
智慧というと、物事をよく知っていることや、正しい判断ができることを思い浮かべるかもしれません。
しかし、智慧が深まるとは、単に知識が増えたり、判断が速くなったりすることではないように思います。
むしろ、自分がどのように現実を見ているのかに気づき、その見方そのものを問い直し、必要に応じて理解を更新できるようになることに、智慧の深まりがあるのではないでしょうか。
そして、その理解さえ絶対的なものとせず、変化する現実に応じて、もう一度見直し、考え直すことができる。
その先に見えてくるのが、「自在」という精神のあり方です。
本稿では、智慧が深まるとは具体的にどのようなことなのかを考えながら、そこから自在へとたどってみたいと思います。
自由と自在は、何が違うのか
自由とは、他者から強制されることなく、自ら考え、自ら選ぶことができることだと考えられます。
しかし、自分で選べるようになったからといって、必ずしも自在になったとは限りません。
私たちは、自分の価値観や役割、成功体験、失敗体験、自己像、あるいは自分が正しいと思っている考え方に強く縛られていることがあります。
たとえば、自分の意見をはっきり主張できる人は、他者に流されず自由に見えるかもしれません。
しかし、「自分の意見を変えてはいけない」「譲ることは負けることだ」と思い込んでいるなら、その人は自分の考え方に縛られているともいえます。
反対に、あるときは主張し、あるときは譲り、あるときは判断を保留し、必要であれば自分の考えを変えることができるなら、そこには一つの考え方に縛られない柔軟さがあります。
自由とは、自ら選べること。
自在とは、自ら選びながら、その選び方そのものにも縛られないこと。
そう考えると、自在とは、好き勝手に振る舞うことではなく、一つの見方や一つの応答に閉じず、変化する現実に応じて新たな可能性へ開かれていることだと考えられます。
観自在菩薩は、なぜ自在なのか
自在という言葉を考えるうえで、仏教の「観自在菩薩」は重要な手がかりになります。
『般若心経』は、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」という言葉から始まります。
『般若心経』では、観自在菩薩が深い般若の智慧を実践する存在として描かれています。
そこで本稿では、この「自在」を、般若の智慧との関わりから考えてみたいと思います。
では、般若の智慧とは何でしょうか。
般若とは、知識を多く持つことではなく、物事のあり方を深く見抜く智慧です。
その中心にあるのが、縁起と空という考え方です。
あらゆるものは、それだけで独立して存在しているのではなく、さまざまな条件との関係の中で生じ、変化しています。
これを縁起といいます。
そして、縁起によって成り立っているものには、それ自体だけで変わることなく存在する固定した実体はありません。
これを空といいます。
空とは、何も存在しないということではありません。
むしろ、ものごとには、それ自体だけで成り立つ固定した実体がないということです。
だからこそ、条件が変われば、そのあり方も変わりえます。
ここに、般若の智慧と自在がつながる重要な手がかりがあります。
般若の智慧は、現実を固定したものとして捉えない
私たちは日常の中で、現実を一つの見方で固定して理解しがちです。
「私はこういう人間だ。」
「あの人はこういう人だ。」
「こうするしかない。」
「あの出来事は失敗だった。」
このような理解は、私たちが現実を整理して生きていくために必要なものでもあります。
しかし、その理解を絶対的なものだと思い始めると、私たちは自分がつくった理解に縛られていきます。
「私は人前で話すのが苦手な人間だ」と思えば、新しい経験を避けるようになるかもしれません。
「あの人は自分を理解してくれない人だ」と決めれば、相手の別の側面が見えなくなるかもしれません。
「この選択は失敗だった」と決めれば、その経験から生まれたものに気づけなくなることもあります。
般若の智慧は、こうした理解そのものを否定するものではありません。
むしろ、それを固定し、絶対化しないことに特徴があります。
今の理解は、これまでの経験や立場、関係、状況など、さまざまな条件の中で生まれています。
条件が変われば、見え方も変わるかもしれません。
別の立場から見れば、違う意味が現れるかもしれません。
その意味で、般若とは、現実を否定する智慧ではなく、現実を固定したものとして捉えない智慧だと考えることができます。
ここからは、般若の智慧をそのまま本書で考えてきた智慧と同一視するのではなく、そこから得られる示唆を手がかりに、私たちの智慧がどのように深まるのかを考えてみましょう。
智慧は、自分の見方を問い直す
私たちは、現実をそのまま見ているつもりでいます。
しかし実際には、自分の経験、価値観、期待、不安、立場などを通して現実を見ています。
同じ出来事を経験しても、人によって意味づけが異なるのはそのためです。
智慧が深まる最初の変化は、
と気づくところにあります。
「これは事実だ」と思っていたことが、実は自分の解釈を含んでいることに気づく。
「相手はきっとこう考えている」と思っていたことが、自分の推測にすぎないことに気づく。
「私はこういう人間だ」と考えていた自己像も、これまでの経験の中で形づくられた一つの理解だと気づく。
このことに気づくと、「私はこう見ている」と「実際にそうである」との間に少し距離が生まれます。
その距離が、別の見方へ開かれる余地になります。
自分から見れば失敗だった出来事が、長い時間の中では転機になることもあります。
自分には冷たく見えた相手の態度が、別の事情を知ることで違って見えることもあります。
一つの出来事を、現在だけでなく過去からの流れの中で見る。
自分の立場だけでなく相手の立場から見る。
目の前の部分だけでなく、その出来事が含まれている全体から見る。
智慧が深まると、このように複数の見方の間を行き来できるようになります。
ここで大切なのは、見方をたくさん持つこと自体ではありません。
どれか一つの見方を絶対化せず、その時の現実をよりよく理解するために、異なる見方の間を行き来できることです。
さらに智慧が深まると、
「私は正しいだろうか。」
と問うだけでなく、
「私は、なぜこれを正しいと思っているのだろう。」
と、自分の判断そのものを問い直せるようになります。
その判断には、自分の経験が影響していないか。
立場や役割による偏りはないか。
恐れや期待が混じっていないか。
過去には有効だった考え方を、現在にもそのまま当てはめていないか。
智慧とは、答えを出す力であるだけでなく、自分がどのように答えを出しているのかを見る力でもあります。
そして、自分の見方を問い直せるようになると、新しい経験によって理解を更新することもできるようになります。
以前は正しいと思っていたことを、「今は違うと思う」と言える。
以前の自分を否定する必要はありません。
そのときには、その考えを持つだけの理由があったはずです。
しかし、新しい経験を重ね、新しいことを知り、別の立場が見えるようになれば、理解も変わります。
智慧が深まるとは、正しい答えを一度手に入れることではなく、現実との関わりの中で、自らの理解を更新し続けられることだと考えることができます。
智慧が深まるほど、「わからない」にとどまれる
智慧が深まると、何でも分かるようになるのでしょうか。
むしろ反対かもしれません。
智慧が深まるほど、自分には分からないことがあるということが、よりはっきり見えてきます。
私たちは、他者の心を完全に知ることはできません。
未来を完全に予測することもできません。
自分が選んだことが本当に最善だったのか、後になっても分からないことがあります。
そのような不確かさに出会うと、人は早く答えを出したくなります。
「きっとこうだ。」
「あの人はこう思っている。」
「これが正解だ。」
答えを決めることで、不確かさから逃れたくなるからです。
しかし、智慧が深まると、
「今はまだ分からない。」
と、その場にとどまることができるようになります。
すぐに結論を出さず、もう少し観察する。
もう少し考える。
必要ならば判断を保留する。
これは優柔不断とは違います。
現実を、自分が用意した答えの中へ急いで押し込めないということです。
分からないものを、分からないまま見続けることも、智慧の一つの姿だと思います。
自分の理解そのものにも、縛られなくなる
私たちは、長く考えた末に一つの理解へたどり着くと、その理解を守りたくなります。
「これが答えだ。」
「ようやく分かった。」
そう思った瞬間、その理解が新しい固定観念になることがあります。
智慧が深まるとは、新しい正解を持つことだけではありません。
自分がたどり着いた理解もまた、その時点での理解にすぎないと知っていることです。
「今は、このように考えている。」
しかし、
「これが最後の答えとは限らない。」
そう考えることができれば、新しい現実に出会ったとき、もう一度問い直すことができます。
これは、般若の智慧が示す「空」とも重なります。
だからこそ、新たな経験に応じて、理解を変えることができます。
そして、ここまで来ると、智慧と自在の関係がはっきりしてきます。
自分の見方に気づく。
別の見方に開かれる。
部分と全体を行き来する。
現在だけでなく、時間の流れの中で見る。
分からなさにとどまる。
自分の正しさを問い直す。
理解を更新する。
そして、自分がたどり着いた理解そのものにも固執しない。
こうした変化が進むほど、人は一つの見方に閉じ込められにくくなります。
「こうでなければならない。」
「私はこういう人間だ。」
「この道しかない。」
そうした固定から、少しずつ離れることができます。
そのとき、人は何も決められなくなるのではありません。
むしろ、自分で選びながらも、その選択に固執せず、状況が変われば選び直すことができます。
一つの見方を持ちながらも、別の見方に開かれていることができます。
一つの答えを出しながらも、それが最後の答えではないことを知っています。
それは、何にも縛られないということではありません。
私たちは身体を持ち、社会の中で生き、さまざまな条件の中にいます。
過去を消すこともできませんし、未来を完全に自由にすることもできません。
それでも、その条件の中で一つの見方に閉じず、そのときの現実に応じた応答を探し続けることはできます。
自在とは、条件から離れることではなく、条件の中で一つの応答に閉じないことなのだと思います。
自在は、自律と調和の働かせ方にも現れる
自在というあり方は、自分の見方だけでなく、自律や調和をどのように働かせるかにも現れます。
人生には、自分の考えを大切にし、自分で決めて進まなければならない場面があります。
周囲から反対されても、自分が大切だと考えることを選ばなければならないこともあります。
そのようなときには、自律を強く働かせる必要があります。
一方で、自分の考えだけに固執せず、相手の声に耳を傾けなければならない場面もあります。
自分一人の考えではなく、共に生きる人たちとの関係の中で答えを探さなければならないこともあります。
そのようなときには、調和を強く働かせる必要があります。
さらに実際の人生では、自律か調和かのどちらか一方だけでは足りないことも多いでしょう。
自分を失わずに相手を受け取る。
相手を尊重しながら、自分の意見を伝える。
自分で決めながら、その決定が周囲にどのような影響を与えるのかにも心を向ける。
自分の生を生きながら、他者と共に生きる。
そのためには、自律と調和のどちらか一方に固定されず、その場に応じて両方を働かせる必要があります。
前の二つの補遺で考えた、自律の中にある熟慮と実行、調和の中にある受容と発信についても同じです。
熟慮することもできる。
実行することもできる。
受容することもできる。
発信することもできる。
大切なのは、熟慮・実行・受容・発信のすべてができるようになることだけではありません。
自分が得意とする一つのあり方に固執せず、そのときの現実を見ながら、必要な働きを選び直せることです。
ここにも、智慧の働きがあります。
自分がいつもの考え方や反応に偏っていないかに気づき、今の状況を改めて見て、そのときに必要な応答を探す。
智慧が深まることで、自律と調和、熟慮と実行、受容と発信のいずれか一つに閉じることなく、それらの間を行き来できる余地が生まれます。
おわりに:答えを持つことから、開かれていることへ
智慧が深まるとは、すべてを知るようになることではありません。
自分の理解が有限であることを知りながら、それでも現実を見つめ、問い直し、理解を更新し続けることです。
そして、自分がたどり着いた理解にさえ縛られず、新しい現実に出会うたびに、もう一度見直し、考え直し、選び直すことができる。
智慧が深まるほど、人は答えをたくさん持つ人になるというより、現実に対して開かれている人になっていくのではないでしょうか。
そのとき、智慧の深まりは、変化する現実に応じて自らの見方と応答を変えていける、「自在」というあり方として現れてくるのではないでしょうか。
補遺4
慈悲は、どのように人との出会いに現れるのか
はじめに:慈悲は、どこに現れるのか
慈悲という言葉から、私たちは、人を思いやることや、苦しんでいる人を助けることを思い浮かべます。
けれども、慈悲は心の中にある優しい感情だけなのでしょうか。
誰かの苦しみを思うだけではなく、その人をどのように理解し、どのように関わるのかというところまで考えると、慈悲は人との出会いの中で具体的な姿をとる働きだと考えることができます。
前の補遺では、智慧が深まることで、一つの見方や一つのあり方にとらわれず、状況に応じて応答できる自在へと開かれていくことを考えました。
では、その自在は、他者との関係の中でどこへ向かうのでしょうか。
そのことを考える手がかりとなるのが、仏教における観世音菩薩です。
観音様とは、「世の音を観る」存在である
観音経は、正式には『妙法蓮華経』第二十五品「観世音菩薩普門品」といい、観世音菩薩が苦しむ人々にどのように応じるのかを説いた経典です。
観世音という名は、「世の音を観る」と書きます。
ここでいう音とは、単なる声ではなく、人々の苦しみや願いを含んだ声だと考えることができます。
観音様は、その声を受け取り、苦しみの中にある人に応じようとします。
しかも、ただ言葉を聞くだけではありません。
怒りの奥に悲しみがあることがあります。
訴えの奥に恐れがあることがあります。
沈黙の奥に孤独があることもあります。
その人が口にしている言葉だけでなく、その奥にあるものまで受け取ろうとするところに、「観る」という言葉の深さがあります。
慈悲は、何かをすることから始まるのではありません。
その人が何に苦しみ、何を願い、何を必要としているのかを観ようとするところから始まります。
観音様は、なぜさまざまな姿で現れるのか
観音経の大きな特徴の一つに、観音様が相手に応じてさまざまな姿をとって現れるという教えがあります。
これを普門示現といいます。
観音様は、いつも同じ姿、同じ方法で人を救うわけではありません。
相手に応じて、仏として現れることもあれば、僧として現れることもあり、王や女性、子どもなど、さまざまな姿をとると説かれています。
ここには、慈悲だけではなく、智慧があります。
相手を助けたいという気持ちがあっても、その人が何に苦しみ、どのような言葉なら届き、どのような関わりなら支えになるのかを見誤れば、その善意は相手に届きません。
だからこそ、相手を観る智慧が必要になります。
そして、相手によって関わり方を変えるためには、自分の考え方や方法に固執しない自在が必要になります。
智慧があるから、相手を一つの見方に固定しない。
自在であるから、一つの方法に固執しない。
慈悲があるから、その智慧と自在を、相手の苦しみを和らげ、その人のよりよい生へと向けることができる。
観音の働きには、この三つが一つになって現れています。
自在は、自分自身のためだけのあり方ではありません。
相手に応じて、よりふさわしい関わり方へと自らを調え直すことにも現れます。
私たちは、無数の縁によって生きている
では、観音様はどこにいるのでしょうか。
寺院の観音像の中だけにいるのでしょうか。
あるいは、私たちとは異なる特別な存在として、遠いところにいるのでしょうか。
仏教には、縁起という基本的な見方があります。
ものごとは単独で存在しているのではなく、さまざまな条件や関係の中で成り立っているという考え方です。
人間もまた、一人で現在の自分になったわけではありません。
家族との出会いがあります。
友人との出会いがあります。
師との出会いがあります。
仕事を通して出会った人々もいます。
自分を支えてくれた人もいれば、自分を悩ませた人もいます。
そうした無数の出会いの中で、私たちの考え方や感じ方、生き方は少しずつ形づくられてきました。
そう考えると、私たちが出会う一人一人は、自分の人生を形づくる縁でもあります。
そして、観音様がさまざまな姿で現れるという教えを日常の世界へ引き寄せてみると、一つの見方が開かれてきます。
私たちが出会う人々の中にも、観音の働きを見ることができるのではないでしょうか。
すべての人に、観音様を見る
助けてくれた人の中に観音様を見ることは、それほど難しくありません。
励ましてくれた人。
自分のことを理解してくれた人。
大切なことを教えてくれた人。
そうした人との出会いは、自分を支え、自分の人生を豊かにしてくれます。
けれども、観音の働きは、必ずしも自分にとって心地よい出会いの中だけに現れるとは限らないのかもしれません。
自分の間違いを指摘した人。
自分を苛立たせた人。
自分の価値観とぶつかった人。
思い通りにならない関係をもたらした人。
そうした人との出会いによって、自分の思い込みや執着、自分でも気づかなかった恐れや弱さに気づくことがあります。
その人自身が、自分を導こうとしているわけではないでしょう。
それでも、その人との関係を通して、自分の心のあり方が見えてくることがあります。
その意味では、その人もまた、自分自身に気づくための縁になっています。
「すべての人に観音様を見る」ということは、すべての人が文字通り観世音菩薩の化身であると断定することではありません。
出会った相手の中に、あるいはその人との関係の中に、自分の生に働きかける観音の働きを見いだすことです。
大乗仏教には、すべての衆生に仏となる可能性を認める考え方があります。
今、怒っている人も、迷っている人も、未熟な行動をしている人も、その現在の姿だけで、その人のすべてを決めることはできません。
この人はこういう人だと固定して見るのではなく、その人にもまだ現れていない可能性があると見る。
そのように相手を固定せず、可能性を見ることも、観音様の眼差しに通じるものといえるでしょう。
そして同時に、相手だけでなく、自分自身を固定しないことも大切です。
この人と出会ったことで、自分の中に何が起きているのか。
自分は何に反応し、何を恐れ、何を守ろうとしているのか。
人との出会いは、相手を知る機会であると同時に、自分自身を知る機会にもなります。
観音様を見ることは、すべてを受け入れることではない
ただし、ここで気をつけなければならないことがあります。
すべての人に観音様を見るということは、その人の言動をすべて肯定することではありません。
自分を傷つける人から距離を取ることもあります。
不当な要求を断ることもあります。
必要な境界を設けることもあります。
場合によっては、その人の行動を止めることが、その人自身のためになることもあります。
相手を思いやることと、相手の望む通りにすることは同じではありません。
慈悲が、自他のよりよい生を願う働きであるならば、相手だけでなく、自分自身の生も大切にされなければなりません。
だからこそ、慈悲には智慧が必要です。
ただ優しくすることが、いつも慈悲になるとは限りません。
今、この人にとって何が必要なのか。
自分と相手の双方にとって、どのような関わり方がよりよいのか。
それを見極めようとするところに、智慧を伴った慈悲があります。
自分もまた、誰かにとって観音様になりうる
すべての人に観音様を見るという考え方には、もう一つの方向があります。
それは、自分自身もまた、誰かにとって観音の働きを担うことがあるということです。
相手の中に観音様を見ることと、自分が観音の働きを担うことは、別々ではありません。
観音様が世の音を観る存在であるならば、私たちも、目の前の人の声をどこまで受け取ることができるかを問われます。
相手が何を言っているのかだけではなく、その人が何に苦しみ、何を願っているのかを考えてみる。
自分の考えをすぐに伝えるのではなく、その人の言葉を聴く。
助言することが必要なときもあります。
黙ってそばにいることが必要なときもあります。
背中を押すことが必要なときもあれば、急がせず待つことが必要なときもあります。
近づくこともあれば、あえて距離を取ることもあります。
相手に応じて、自分の関わり方を変えていく。
そこに、普門示現が私たちの日常の中に現れる姿を見ることができます。
大切なのは、観音様のような立派な存在になろうとすることではありません。
目の前の人に対して、今の自分にできる応答を探すことです。
その人を一つの見方に閉じ込めず、その人の声に耳を澄まし、自分の決まった方法にこだわらず、よりふさわしい関わり方を探していく。
その小さな積み重ねの中に、観音の働きは現れるのでしょう。
おわりに:出会いの中に、観音様は現れる
観音経は、観音様という特別な存在について語る経典です。
けれども、その教えを私たち自身の生き方へ引き寄せると、人との出会いをどのように見るのかという問いへと開かれていきます。
人の声を、どこまで深く受け取ることができるのか。
相手を、自分の先入観だけで見てはいないか。
その人に必要な関わり方を、自分の決まった方法ではなく、相手に応じて探すことができるか。
そして、自分にとって好ましくない相手との出会いの中にも、自分自身を見つめ直すきっかけを見ることができるか。
すべての人に観音様を見るということは、すべての人を理想化することではありません。
一つ一つの出会いを、自分と他者との関係、そして自分自身を見つめ直す縁として受け取ることです。
そして、その出会いの中で、自分もまた、どのように応答するのかを問われています。
相手を観る智慧。
一つのあり方にとらわれない自在。
そして、その自在を自他のよりよい生へ向ける慈悲。
観音様の姿から、智慧と自在と慈悲が、人との出会いの中でどのように一つの働きとなるのかを考えることができるのではないでしょうか。
観音様は、どこか遠くにいるだけではありません。
人と人が出会い、その声を受け取り、その苦しみに応じようとするとき。
そして、その出会いによって、自分自身の見方や生き方が少しずつ変わっていくとき。
観音の働きは、その関係の中に現れているのかもしれません。
奥付
人間精神の円熟
迷いながら、それでもよりよく生きる
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