心身一如の生命学(番外編2)

三人のレンガ職人が教えてくれること
~分断された存在から統合された生へ~
序章:ある寓話が問いかけるもの
「あなたは今、何をしているのですか?」
この素朴な問いかけが、私たちの人生の本質を照らし出すことがあります。そんな問いを巡る物語が、世界中で語り継がれています。
中世ヨーロッパの建設現場で働く三人のレンガ職人。彼らは同じ作業をしていながら、その問いに対してまったく異なる答えを返します。一人目は「ただレンガを積んでいる」と答え、二人目は「家族を養うために働いている」と答え、そして三人目は「大聖堂を建てている」と答えたという物語です。
この寓話は、ビジネス書や自己啓発の世界で頻繁に引用され、「大きなビジョンを持つことの重要性」を説く際の定番として親しまれてきました。しかし、果たして「三人目のような視点を持つべき」という一般的な解釈だけが、この物語が私たちに伝えようとしているメッセージの全てなのでしょうか?
私たちは「心身一如の生命学」シリーズにおいて、人間存在には動物的・肉体的モード、人間的・心身的モード、超越的・精神的モードという三つの様相があり、それらがすべて調和してこそ、真に豊かな人生が実現されることを見てきました。この視座から改めてこの物語を眺めた時、まったく異なる風景が見えてきます。
第一章:三人の職人、三つのモード
一人目の職人の「ただレンガを積んでいる」という答え。これは単なる「目先の作業に囚われた視野の狭い人」として片付けられがちですが、実は動物的・肉体的モードの純粋な現れとして読み解くことができます。
この職人は今、目の前のレンガの重さを感じ、手のひらに伝わる石の冷たさや粗い感触を味わい、身体の疲労と筋肉の動きを意識しながら、一つひとつのレンガを丁寧に積み上げている。その集中した作業の中で、彼の動物的な肉体は確かに「今ここ」に存在し、生存のための労働という根源的な営みに従事しています。
実はこの姿勢には、現代の私たちが失いかけている大切な智慧が潜んでいます。マインドフルネスや禅の教えが説く「今この瞬間に完全に存在する」という境地は、まさにこの一人目の職人が体現している世界なのです。過去を悔やまず、未来を憂えず、ただ目の前の一つのレンガと向き合う。その純粋さは、動物的・肉体的モードが持つ存在の確かさを示しています。
二人目の職人の「家族を養うために働いている」という答え。これは人間的・心身的モードの現れと捉えることができます。
彼は単に肉体を動かしているのではなく、社会という文脈の中で自分の役割を理解し、愛する家族のために責任を果たそうとしています。待っている妻の顔、成長していく子どもたちの姿、家庭という小さな共同体における自分の位置づけ。これらを意識しながら働く彼の姿は、人間が社会的存在として生きることの意味を体現しています。
家族を養うという行為は、単なる経済的な取引ではありません。それは人間関係の中で意味を見出し、他者とのつながりを通じて自己を実現していく、まさに人間的・心身的モードの核心です。論理的思考、感情の調整、役割の認識、責任の遂行。これらすべてが統合された状態で、彼はレンガを積み続けているのです。
そして三人目の職人の「大聖堂を建てている」という答え。これは超越的・精神的モードの顕著な現れです。
彼は目の前のレンガという物質を超えて、未来に完成する壮麗な建築物を心の目で見ています。神への信仰、美への追求、世代を超えて受け継がれる遺産の創造。個人的な労働は、時間と空間を超越した永続的な価値の実現へと昇華されています。
この職人にとって、一つひとつのレンガは単なる石ではなく、神聖な建築物を構成する意味深い要素です。彼の労働は、有限な肉体的行為でありながら、無限の精神的価値とつながっています。これこそが超越的・精神的モードが人生にもたらす変容の力なのです。
第二章:分断の危うさ――それぞれのモードに囚われる時
もし一人目の職人が動物的・肉体的モードだけに固着していたら、どうなるでしょうか。確かに彼は「今ここ」に存在し、身体の感覚に敏感かもしれません。しかし、より大きな文脈や意味を見失い、単純作業の繰り返しに疲弊し、やがて労働の虚しさに苛まれるかもしれません。「何のために生きているのか」という問いに答えられず、ただ生存のためだけに働き続ける――それは動物的・肉体的モードという存在の基盤だけでは、人間としての充足は得られないことを示しています。
二人目の職人が人間的・心身的モードだけに縛られていたら、どうでしょうか。家族を養うという社会的責任は確かに尊いものです。しかし、もしそれだけが労働の意味であれば、より効率的な仕事、より高収入の職業があれば、いつでもレンガ職人を辞めるべきだという結論になってしまいます。社会的・経済的な合理性だけで人生を測る時、私たちは目に見えない大切なものを見失ってしまうのです。
そして三人目の職人が超越的・精神的モードだけに偏っていたら?「大聖堂を建てている」という崇高なビジョンは美しいですが、もしそのビジョンが身体の限界や家族の現実的な必要を無視させるものだったら、それは調和ではなく分断をもたらします。
歴史を振り返れば、「崇高な理想」のために肉体を酷使し健康を損ない、あるいは家族を顧みず社会的責任を放棄した例は枚挙にいとまがありません。宗教的狂信、イデオロギーへの盲従、過度の自己犠牲――これらはすべて、超越的・精神的モードだけが肥大化し、他のモードとのバランスを失った結果とも言えるのです。
つまり、この三人の職人は、それぞれが人間存在の一つの側面に特化しているものの、真の統合には至っていない姿を映し出しているのです。問題は「どの職人が正しいか」ではなく、「どの職人も、まだ完全ではない」という点にこそあります。
第三章:統合された第四の職人――あるいは一人の中の三つの声
ここで私たちは、物語には登場しない「第四の職人」を想像してみることができます。いや、正確に言えば、それは「第四の人物」ではなく、「三つのモードが調和した一人の職人」の姿です。
その職人は、まず動物的・肉体的モードの声に耳を傾けます。「今日の身体の調子はどうだろう? このレンガの重さ、手のひらの感触、筋肉の疲労――これらはすべて、私の存在の基盤からの大切なメッセージだ。無理をせず、身体のリズムを尊重しながら働こう」
同時に、人間的・心身的モードの認識も活き活きと働いています。「この仕事は、愛する家族を支えるための大切な糧だ。仲間の職人たちとの協力、親方との信頼関係、そしてこの街の人々の暮らしを支える建物を作っているという社会的な意義。私はこの共同体の一員として、誇りをもって責任を果たしている」
そして超越的・精神的モードは、より広い視野を開いてくれます。「この大聖堂は、私が死んだ後も何世紀にもわたって人々の祈りの場となる。今積んでいる一つのレンガは、永遠なるものと時間を超えた美への、ささやかだが確かな貢献だ。この労働を通じて、私は何か大きなもの、神聖なものとつながっている」
この統合された職人にとって、「何をしているのか」という問いへの答えは、「レンガを積み、家族を養い、大聖堂を建てている」という三つの真実が重なり合ったものとなります。それらは互いに矛盾するのではなく、むしろ互いを支え、深め合う関係にあるのです。
身体の確かな感覚(動物的・肉体的モード)があるからこそ、社会の中での役割(人間的・心身的モード)を着実に果たすことができ、そして超越的な意味(超越的・精神的モード)が労働に深い充足感をもたらす。この三つが自然に循環し、調和する時、私たちは「心身一如の存在として、社会の中で意味のある人生を全うしている」という実感を得ることができるのです。
第四章:現代という時代が生む分断
なぜ従来の解釈は「三人目が理想」という単純な結論に至ったのでしょうか。それは、私たちが生きる現代社会そのものが、人間存在を分断する構造を持っているからかもしれません。
「心身一如の生命学」シリーズで見てきたように、近代化の過程で、私たちの動物的・肉体的モードは長い受難の歴史を歩んできました。身体は「管理すべき機械」とみなされ、本能や情動は「克服すべき野蛮性」として抑圧されてきました。その結果、多くの人々は自分の身体の声を聞くことができなくなり、ただ効率性と生産性の論理に従って働き続けています。
同時に、超越的・精神的モードもまた、「非科学的」「非合理的」として周辺化されてきました。宗教、芸術、直観、超越的体験――これらは「個人的な趣味」の領域に追いやられ、「真面目な」仕事や社会生活とは切り離されるべきものとされてきました。
その間隙を埋めたのが、人間的・心身的モードの一側面である「社会的・経済的な合理性」でした。効率、生産性、利益、成果――これらの指標が、現代人の労働と人生を測る唯一の物差しになってしまったのです。
「三人のレンガ職人」の寓話が「ビジョンを持て」「大きな目的を見出せ」と説く背景には、このような現代社会の病理があります。多くの人々が、ただ機械的に労働し、その意味を見失っているからこそ、「大聖堂」のような崇高な目的が必要だと感じられるのです。
しかし、その処方箋は本当に正しいのでしょうか? もし問題の本質が「人間存在の三つのモードの分断」にあるとすれば、答えは「一つのモード(超越的・精神的モード)を強調すること」ではなく、「三つのモードを再び統合すること」にあるはずです。
第五章:真の教訓――分断から統合へ
「三人のレンガ職人」の物語が私たちに本当に教えてくれることは、「三人目のようになるべき」ということではありません。それは、「一人の人間の中に、この三つの視点すべてが調和して存在すべきだ」ということなのです。
もしあなたが今、何らかの仕事に従事しているなら、こう問うてみてください。
「私は今、身体の声を聞いているだろうか?」(動物的・肉体的モード)
疲労を無視していないか。自然なリズムを尊重しているか。「今ここ」の感覚に意識を向けているか。
「私は今、社会の中での意味あるつながりを感じているだろうか?」(人間的・心身的モード)
この仕事は誰かの役に立っているか。家族や仲間との絆を育んでいるか。社会の一員としての誇りを持てているか。
「私は今、より大きな目的や意味とつながっているだろうか?」(超越的・精神的モード)
この労働は自分を超えた何かに貢献しているか。時間を超えた価値に触れているか。深い充足感を感じているか。
これら三つの問いのどれか一つだけに「はい」と答えられる状態は、まだ不完全です。真に豊かな労働、そして人生は、この三つすべてに「はい」と答えられる時に実現されます。
興味深いことに、伝統的な職人の世界には、このような統合的な在り方が自然に息づいていました。日本の伝統工芸の職人たちは、素材の声を聞き(動物的・肉体的モード)、社会の中での役割を自覚し(人間的・心身的モード)、そして自分の仕事を「道」として捉え、より高い次元の美や真理を追求してきました(超越的・精神的モード)。
「心身一如」という東洋の智慧は、まさにこの統合的な在り方を指し示しています。心と身体は分けられないように、存在と意味も、個人と社会も、日常と超越も、本来は一つの全体の異なる側面にすぎないのです。
第六章:あなた自身の中の三人の職人
この物語を読み終えた今、もう一度問いかけてみましょう。「あなたは今、何をしているのですか?」
その答えは、もはや一つではないはずです。あなたの中には、三人の職人すべてが住んでいます。そしてその三人は、互いに対立するのではなく、調和して一つの人生を奏でることができるのです。
朝、目覚めた時、まず身体の感覚に意識を向けてみてください(一人目の職人)。その日一日、あなたが関わる人々や社会での役割を思い描いてみてください(二人目の職人)。そして、あなたの人生全体を貫く意味や目的を静かに感じ取ってみてください(三人目の職人)。
この三つの視点が自然に循環する時、あなたは「ただ生きている」だけでなく、「よく生きている」ことを実感できるでしょう。それは、動物的・肉体的モードという存在の基盤に深く根差し、人間的・心身的モードという社会の流れの中でしなやかに適応し、そして超越的・精神的モードという意味の源泉から豊かに滋養を得ている状態です。
「三人のレンガ職人」の物語は、単なる仕事への姿勢を説く教訓話ではありません。それは、私たち一人ひとりの中に息づく三つのモードの存在を思い出させ、それらを調和させることの大切さを静かに教えてくれる、深い智慧の物語なのです。
終章:新しい物語へ――統合された生を生きる
中世の建設現場から現代のオフィス、工場、病院、学校、そして家庭へ。場所は変わっても、「あなたは今、何をしているのですか?」という問いは、時代を超えて私たち一人ひとりに投げかけられ続けています。
「三人のレンガ職人」の寓話を、「第三の職人が理想である」という単純な教訓として受け取るのではなく、「一人の人間の中に三つのモードすべてが調和して存在すべきだ」という深い真理の表現として読み直す時、私たちは新しい物語を生き始めることができます。
それは、存在と意味が分断された近代の物語から、心身一如の統合された生命の物語への転換です。効率と生産性だけを追求する労働から、身体の智慧を尊重し、社会とのつながりを大切にし、そして超越的な意味に触れる豊かな労働への転換です。
私たち一人ひとりが、自分の中の三人の職人の声に耳を傾け、それらを調和させていく時、社会全体もまた、より統合された、より人間的な姿へと変容していくでしょう。
レンガを積むという行為は変わらなくても、その意味は無限に豊かになりえます。なぜなら、そこには、大地に根差す身体の確かさ、社会の中で生きる人間の温かさ、そして宇宙に広がる精神の崇高さが、すべて同時に存在しうるからです。
「あなたは今、何をしているのですか?」
この問いに、あなた自身の、三つのモードが調和した答えを見出せますように。そして、その答えが、あなたの人生を照らす光となり、周りの人々にも温かく伝わっていきますように。
心身一如の生命として、社会という舞台で、意味ある人生を全うする――それこそが、私たち人間に与えられた、最も美しい可能性なのですから。
あとがき:寓話の起源を辿って
本稿を書くにあたり、「三人のレンガ職人」の物語の起源を調べてみたところ、興味深い事実が明らかになりました。
多くの人がこの物語を「イソップ寓話」であると信じていますが、実は確認できる最古の出典は、アメリカの広告業界の伝説的人物ブルース・バートン(Bruce Barton)が1927年に出版した著書"What Can A Man Believe?"(『人は何を信じることができるか』)です。
バートンの原典では、舞台は中世ではなく、建築家クリストファー・レンが設計したセント・ポール大聖堂の建設現場でした。そして三人の石工の答えは次のようなものでした。
一人目:「石を切っている」
二人目:「3シリング6ペンスを稼いでいる」
三人目:「大聖堂の建設を手伝っている」
興味深いことに、現代日本で流布している版では、二人目の答えが「家族を養っている」という情緒的な表現に変化しています。これは、物語が時代と文化を超えて伝わる過程で、それぞれの社会の価値観を反映するように「再創作」されてきたことを示しています。
さらに、この物語に対する解釈も、実は一様ではありません。ある論者は「大聖堂が本当に良いものかどうか分からない。レンガを積むという確かな技能の方がよほど価値がある」と主張します。別の論者は「外発的動機(大聖堂という大義)よりも、内発的動機(レンガ積みそのものへの愛)の方が持続可能だ」と指摘します。
このように、一つの寓話が多様な解釈を生み出し、時代とともに変容し続けるということ自体が、人間の精神活動の豊かさを物語っています。そして、その多様性を認めた上で、私たちは「心身一如」という東洋の智慧に基づいた新たな読み解きを提案することができるのです。
寓話は、固定された「正解」を教えるためのものではなく、私たち一人ひとりが自分自身の人生の意味を考えるための「問いかけ」として存在します。「三人のレンガ職人」もまた、「どの職人が正しいか」という問題ではなく、「あなた自身はどのように生きるか」という根源的な問いを投げかけ続けているのです。
この物語が、あなた自身の「心身一如の生」を見つめ直すきっかけとなれば、これほど嬉しいことはありません。
「心身一如の生命学」シリーズとの関連
本稿は「心身一如の生命学」シリーズの番外編として位置づけられます。本編は以下の5つの物語で構成されています。
【第1話】人間存在の三つのモード物語:心身一如の生命が奏でる調和の交響曲
【第2話】文明という名の長い変容物語:動物的・肉体的モードの静かなる受難
【第3話】近代という名の長い白昼:超越的・精神的モードが歩んだ変容の物語
【第4話】西洋医学の変容と機械的思考:機械という比喩が刻んだ光と影の物語
【第5話】新たな調和への道を開く物語:生命の智慧が導く三つのモードの復権
本稿で展開した「三つのモード」の概念や「心身一如」の視座については、これらの本編をご参照ください。
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