私の心と全人的健康
― 自然、社会、文明の中で生きる私 ―
喜多敏明
序章
健康は、「私にとっての健康」から始まる
私たちは、健康を外から見ている
健康について考えるとき、私たちはまず、血圧や血液検査、画像検査、体重、身体機能など、外から確認できる身体の状態を思い浮かべることが多いのではないでしょうか。
現代の医療では、こうした客観的な評価によって、本人がまだ気づいていない身体の異常を発見したり、病気の状態を正確に把握したりすることができます。
その意味で、身体の状態を客観的に評価することは、健康を守るために欠かすことのできないものです。
しかし、健康を外から測ろうとすると、どうしても測定しやすい身体や検査値が中心になりやすくなります。
血圧は正常か、血糖値は高くないか、画像に異常はないか、身体機能は保たれているかということは詳しくわかっても、その人自身が自分の健康をどのように感じ、どのように生きているのかまでは、検査だけではわかりません。
つまり、客観的な健康評価は重要ですが、それだけで健康の全体を捉えることはできないのです。
検査では捉えられない健康がある
検査では特に異常がないと言われても、「どうも調子が悪い」「以前のような元気がない」「自分は健康ではない」と感じることがあります。
眠れていない、疲れが抜けない、何をしても楽しめない、人とのかかわりが負担になっているというように、検査値には表れにくくても、本人は「健康ではない」と感じることがあります。
その一方で、病気を抱えていたり、身体に不自由があったりしても、自分なりの生活を送り、人とつながり、日々の暮らしに充実を感じながら生きている人もいます。
もちろん、病気があることとないことが同じだという意味ではありません。
ここで大切なのは、身体の客観的な状態と、本人が経験している健康とは、必ずしも完全には一致しないということです。
健康には、外から確認される状態だけではなく、その人自身が自分の生をどのように経験しているかという側面があります。
健康は、「私にとっての健康」でもある
私は、自分の健康を検査結果だけによって感じているわけではありません。
身体の調子や日々の暮らしなど、さまざまな経験を通して、「今日は調子がよい」「最近は少し疲れている」「今の生活は落ち着いている」と、自分の健康を感じています。
このように考えると、健康とは、外から評価される状態であるだけではなく、私自身が生きながら経験しているものでもあります。
そこで本書では、健康を考える出発点を、
「私にとって健康であるとは、どういうことか」
という問いに置いてみたいと思います。
これは、「自分が健康だと思えば健康である」という意味ではありません。
身体の状態や検査値を客観的に知ることも大切ですが、その健康を実際に生きているのは、一人の「私」です。
だからこそ、健康を考えるためには、外から見た健康だけでなく、私自身が経験している健康にも目を向ける必要があります。
私にとっての健康は、全人的である
では、私が「健康である」と感じるとき、それにかかわっているのは身体の状態だけでしょうか。
よく眠れる、食べられる、動けるという身体の状態だけでなく、安心して暮らせること、人とつながっていること、自分の居場所があること、自分らしく生活できることも、私の健康に深くかかわっています。
さらに、自分のしていることに意味を感じられること、何を大切にして生きたいのかがわかること、未来に希望をもてることも、私にとっての健康にかかわっています。
つまり、私にとっての健康は、身体だけの状態ではありません。
それは、私という一人の人間が、全体としてどのように生きているかにかかわるものです。
ここでいう「全人的」とは、健康にかかわるさまざまな側面を並べるという意味ではありません。
一人の私の健康を、部分に分けたまま見るのではなく、私の生全体にかかわる健康として捉えることを意味します。
その意味で、私にとっての健康は、本来、全人的な健康なのです。
全人的健康は、私の心に現れる
では、その全人的な健康を、私はどのように経験しているのでしょうか。
身体の状態も、生活の安心も、人とのつながりも、人生の意味や希望も、それらが私の健康にかかわるのは、最終的には、それらを一人の「私」が経験しているからです。
身体が軽い、疲れている、痛い、心地よいという身体の感覚も、安心や不安、人とのつながりや孤独、生活の充実、人生の意味や希望、迷いなども、すべて一人の私の経験として現れます。
本書では、このように、私が生きる中で経験することが、一人の私の経験として現れるところを「私の心」と捉えます。
ここでいう心は、身体とは別の実体として存在するものではなく、また、感情や気分だけを意味するものでもありません。
身体、生活、人生にかかわるさまざまな経験は、一人の私の生の経験として、私の心に現れます。
全人的健康とは何かを考えるためには、まず、この健康を経験している一人の「私」を見つめる必要があります。
本書では、私の心から全人的健康を考えていく
では、その健康を経験している「私」とは、どのような存在なのでしょうか。
本書では、まず、一人の私が身体・個人・精神として生きていることを考えます。
そして、身体として自然の中に、個人として社会の中に、精神として文明の中に生きている私を、順に見つめていきます。
自然・社会・文明との関係が、私の健康にどのようにかかわっているのかを考えることで、私にとっての全人的健康の姿を少しずつ明らかにしていきます。
そして終章では、それまでの考察をもう一度一人の「私」に戻し、私にとっての全人的健康とは何かを考えます。
「私にとっての健康」から出発し、「私の心」を中心に、自然・社会・文明の中で生きる私を見つめながら、全人的健康とは何かを考えていく。
それが、本書の歩みです。
第1章
一人の私は、身体・個人・精神として生きている
私は、一人の「私」として生きている
私は、朝目を覚まし、その日の身体の調子を感じ、人とかかわり、仕事や家事をし、さまざまなことを考えながら一日を過ごしています。
身体が軽いと感じるのも、誰かと話して安心するのも、自分のこれからについて考えるのも、すべて同じ一人の「私」です。
私たちは、自分を身体だけとして生きているわけでも、人との関係の中だけで生きているわけでも、考える存在としてだけ生きているわけでもありません。
一人の私は、身体として生き、個人として生き、精神として生きています。
本章では、身体・個人・精神を、一人の私が生きている三つの在り方として捉えます。
この三つの在り方を見つめながら、一人の私がどのように一つの生を生きているのかを考えていきます。
私は、身体として生きている
私は、身体として生きています。
呼吸し、食べ、眠り、動き、休みながら、生命を保っています。
痛みがあれば、私は痛いと感じ、疲れれば休みたいと思い、よく眠れた朝には身体の軽さを感じます。
このように、身体に起こっていることは、私から離れたところで起こっているのではなく、私自身の経験として生きられています。
その意味で、私は単に身体をもっているのではなく、身体として生きているのです。
身体としての私は、生命を保ちながら生きています。
その意味で、身体としての私の在り方は、まず生存にかかわっています。
私は、個人として生きている
私は、身体として生命を保っているだけではありません。
私は名前をもち、人との関係をもち、家庭や仕事、地域などの中で、具体的な毎日を送っています。
そこでは、自分で選び、行動し、人とかかわり、それぞれの場で役割を担いながら生きています。
このように、人との関係や役割をもちながら、一人の人間として日々の暮らしを営んでいる私を、ここでは個人としての私と捉えます。
個人として生きるとは、こうした具体的な暮らしを生きることでもあります。
その意味で、個人としての私の在り方は、生活にかかわっています。
私は、精神として生きている
私は、生存し、生活するだけではありません。
自分に起こった出来事について考え、それが自分にとってどのような意味をもつのかを問い、何を大切にして生きたいのかを考えることがあります。
過去を振り返り、現在の自分を見つめ、これからどのように生きたいのかを思い描くこともあります。
本書では、このように、意味や価値を捉え、自分の生の方向を見いだそうとする働きを「精神」と考えます。
精神として生きるとは、自分にとって何が大切なのかを考えながら、自分の生き方を選び、自分なりの人生を形づくっていくことでもあります。
その意味で、精神としての私の在り方は、人生にかかわっています。
私は、生存・生活・人生を一つの生として生きている
ここまで、身体として生きる私、個人として生きる私、精神として生きる私を見てきました。
身体としての私は生存し、個人としての私は生活し、精神としての私は人生を生きています。
しかし、生存・生活・人生は、それぞれ独立しているわけではありません。
生存・生活・人生は、同じ一日の中で重なり合っています。
たとえば、病気になれば、まず身体につらさが現れます。
しかし、その影響は身体だけにはとどまらず、仕事に行けなくなったり、家庭での役割が変わったりして、生活にも及ぶことがあります。
さらに、病気を経験することで、これからどのように生きたいのか、何を大切にしたいのかと、自分の人生について考え直すこともあります。
このように、一つの身体の変化が、生活にも人生にも広がっていきます。
逆に、生活のあり方や人生の受け止め方が、身体の調子に影響することもあります。
身体・個人・精神は、それぞれ独立しているのではなく、互いに影響し合いながら、一人の私の生を形づくっています。
したがって、身体と生存、個人と生活、精神と人生という対応はあっても、それぞれが切り離されているわけではありません。
私は、生存・生活・人生を重ねながら、一つの生を生きています。
だからこそ、私に起こる一つの変化は、身体だけ、生活だけ、人生だけにとどまらず、一人の私の生全体にかかわることがあります。
全人的健康は、一人の私の全体にかかわる
序章では、私にとっての健康は、身体だけではなく、私の生全体にかかわる全人的な健康であると考えました。
本章で一人の私を見つめてきたことで、その理由がよりはっきりしてきます。
私は、身体として生存し、個人として生活し、精神として人生を生きています。
しかも、それらを生きているのは、すべて同じ一人の私です。
したがって、私にとっての健康も、身体の状態だけで捉えることはできません。
身体としてどのように生きているのか、個人としてどのように生活しているのか、精神としてどのように人生を生きているのかは、すべて一人の私の健康にかかわっています。
そして大切なのは、それらを三つの別々の健康として並べることではありません。
生存・生活・人生を重ねながら生きている一人の私を、その全体として捉えることです。
その意味で、全人的健康とは、身体・個人・精神として生きる、一人の私の全体にかかわる健康であると考えることができます。
しかし、一人の私の生は、私の内側だけで成り立っているわけではありません。
私は、身体として自然の中に、個人として社会の中に、精神として文明の中に生きています。
自然・社会・文明との関係は、私の生存・生活・人生を支える一方で、ときには私の健康を損なうこともあります。
そこで次の三つの章では、身体として自然の中に生きる私、個人として社会の中に生きる私、精神として文明の中に生きる私を順に見つめながら、それぞれの関係が私の健康にどのようにかかわっているのかを考えていきます。
第2章
私は、身体として自然の中で生きている
私は、自然の中で身体として生きている
前章では、一人の私は身体・個人・精神として、生存・生活・人生を重ねながら生きていることを見てきました。
しかし、一人の私の生は、私の内側だけで成り立っているわけではありません。
身体としての私は、空気のあるところで呼吸し、水を飲み、食物を取り入れ、光や気温、湿度などの影響を受けながら生きています。
自然というと、山や森、海や川などを思い浮かべるかもしれませんが、身体としての私にとって自然は、もっと身近なところにあります。
空気、水、光、気温、湿度、植物や動物、微生物など、こうした身近な自然との関係の中で、私は身体として生きています。
その意味で、私は自然の外から自然を眺めているのではなく、最初から自然の中で身体として生きています。
身体としての私にとって、自然は単なる周囲の環境ではなく、私が生存していくための基盤なのです。
身体は、自然から受け取り、外へ出しながら生きている
身体としての私は、自然との間で絶えずやり取りをしています。
呼吸によって空気を取り入れ、水を飲み、食物を食べ、それらを身体の中で利用しながら生命を保っています。
そして同時に、呼吸によって二酸化炭素を出し、身体から熱を放ち、尿や便などを身体の外へ出しています。
つまり身体は、外の世界から閉ざされた存在ではありません。
自然から必要なものを取り入れ、身体の中で利用し、不要になったものや熱を外へ出しながら生きています。
私たちは普段、このやり取りをほとんど意識することなく暮らしていますが、このような自然との絶え間ないやり取りそのものが、身体としての生存を支えています。
身体は、自然の変化に応じながら生きている
自然は、いつも同じ状態にあるわけではありません。
昼と夜があり、気温や湿度が変わり、季節も移り変わっていきます。
季節が変われば、育つ植物や収穫される食材も変わり、自然から得られる食物にも季節ごとの変化が生まれます。
身体もまた、こうした自然の変化を一方的に受けているだけではありません。
暑くなれば汗をかいて熱を逃がし、寒くなれば熱を逃がさないようにするなど、外界の変化に応じながら身体の状態を調えています。
また、昼と夜の光の変化は、眠りと目覚めのリズムにもかかわっています。
このように身体は、一定の状態に固定されているのではなく、変化する自然に応じながら、自らの状態を調えて生きています。
自然との関係が、身体の健康を支えている
身体として生きるためには、さまざまな自然との関係が必要です。
呼吸できる空気があること、水を飲めること、身体を養う食物があること、光や適切な温度のある環境で暮らせることは、どれも当たり前のように感じられます。
しかし、それらは身体がその働きを保つための基本的な条件です。
空気、水、食物、光、温度などとの関係が適切に保たれることによって、身体は生命活動を続けることができます。
私たちは、自分の力だけで身体の健康を保っているのではありません。
身体としての私の健康は、私と自然との関係によって支えられています。
自然との関係は、身体の健康を損なうこともある
しかし、自然との関係が、いつも私の健康を支える方向に働くとは限りません。
強い暑さや寒さは、身体に大きな負担を与えることがあります。
感染をもたらす微生物によって病気になることもあります。
台風や豪雨、地震などの自然災害によって、生命や身体の健康が脅かされることもあります。
身体には自然の変化に応じて自らを調える働きがありますが、その調整できる範囲を超える負荷が加われば、身体の状態は崩れることがあります。
つまり自然は、私が生きるために欠かすことのできない世界であると同時に、その変化や負荷によって、身体の健康を損なうこともある世界です。
身体として健康に生きることは、自然からただ恩恵を受けることではなく、変化する自然との関係の中で、自分の身体を守り、調えながら生きることでもあります。
自然との関係は、身体を通して私の心に現れる
私たちは、自然との関係をいつも意識して生きているわけではありません。
けれども、その関係は身体を通して、私自身の経験として現れます。
心地よい気温の中では身体が楽に感じられ、厳しい暑さが続けば、だるさや疲労を感じることがあります。
寒さの中では身体がこわばり、温かい場所に入れば、ほっとすることもあります。
陽ざしの暖かさを心地よく感じたり、暑さによるつらさや寒さによる不快を感じたりすることも、自然との関係が身体を通して私に経験されている姿です。
自然との関係は、私の外側だけで起こっているのではありません。
その関係によって生じた身体の状態は、軽さや重さ、快さや不快さ、活力やつらさといった一人の私の経験として、私の心に現れます。
だからこそ、自然との関係は、単に身体を維持するための外的な条件ではなく、私が自分の健康をどのように感じるかにも深くかかわっています。
全人的健康は、自然との関係の中でも成り立っている
前章では、全人的健康とは、身体・個人・精神として生きる一人の私の全体にかかわる健康であることを見ました。
本章でさらに見えてきたのは、その健康が、一人の私の内側だけで完結しているのではないということです。
身体としての私は自然の中に生き、自然から必要なものを受け取り、自然の変化に応じながら自らの状態を調え、生命を保っています。
自然との関係は身体の健康を支える一方で、ときには身体に負荷を与え、その健康を損なうこともあります。
そして、その関係の中で生じる身体の状態は、一人の私の経験として私の心に現れます。
このように考えると、全人的健康には、身体そのものの状態だけでなく、身体としての私と自然との関係も含まれていることがわかります。
第1章で見えてきたのは、全人的健康が一人の私の全体にかかわる健康であるということでした。
本章ではそこからさらに、全人的健康が私の内側だけではなく、私が生きている世界との関係の中でも成り立つ健康であることが見えてきました。
しかし、私が生きている世界は自然だけではありません。
私は人とかかわり、家庭や仕事、地域などの中で日々の暮らしを営んでいます。
つまり私は、個人として社会の中にも生きています。
次章では、個人としての私と社会との関係を見つめながら、その関係が私の全人的健康にどのようにかかわっているのかを考えていきます。
第3章
私は、個人として社会の中で生きている
私は、社会との関係の中で生活している
前章では、身体としての私は自然の中に生きており、自然との関係が私の健康を支える一方で、ときにはその健康を損なうこともあることを見てきました。
しかし、私が生きている世界は自然だけではありません。
私は、人とかかわり、仕事や家事をしながら、毎日の生活を送っています。
その生活は、自分一人の力だけで成り立っているわけではありません。
私は、人との関係や社会のさまざまな仕組みの中で、一人の個人として生活しています。
個人として生きるとは、社会との関係の中で、自分の具体的な暮らしを営んでいくことでもあるのです。
私は、人との関係や役割の中で生活している
私の生活には、さまざまな人との関係があります。
家族、友人、職場の人、地域の人など、かかわる相手や関係のあり方は人によって異なりますが、私たちは誰かとかかわりながら日々を生きています。
そこでは、私は誰かに支えられるだけでなく、自分もまた誰かを支えることがあります。
家庭で役割をもち、仕事を担い、人との関係の中で、自分なりにできることを引き受けながら生活しています。
このように、個人としての私は、人との関係をもち、さまざまな役割を担いながら、具体的な生活を営んでいます。
私の生活は、社会の仕組みによって成り立っている
私の生活を成り立たせているのは、直接かかわっている人だけではありません。
水道や電気が使え、必要なものを手に入れ、道路や交通機関を利用し、病気になったときには医療を受けることができるのも、社会のさまざまな仕組みが働いているからです。
私たちは普段、それらを意識せずに暮らしていますが、日常生活の多くは、自分の知らないところで働いている多くの人や仕組みによって支えられています。
それらがうまく働かなくなったとき、私たちは、自分の生活がどれほど多くの支えの上に成り立っていたのかに気づくことがあります。
個人としての私の生活は、自分一人の力ではなく、人々の働きや社会の仕組みによって成り立っています。
社会との関係が、私の健康を支えている
こうした人との関係や社会の仕組みは、生活を成り立たせるだけでなく、私の健康にも深くかかわっています。
安心して暮らせる場所があり、生活に必要なものを得ることができ、困ったときには助けを求められることは、私が健やかに生活していくための大切な条件です。
人との関係が保たれ、必要な支援を受け、自分なりの生活を続けられることも、個人としての私の健康を支えています。
身体に大きな問題がなくても、毎日の生活そのものが成り立たなければ、「自分は健やかに生きている」と感じることは難しくなります。
その意味で、個人としての私の健康は、生活が安定して営まれ、人や社会との関係が保たれていることによって支えられています。
社会との関係は、私の健康を損なうこともある
しかし、社会との関係が、いつも私の健康を支える方向に働くとは限りません。
人とのつながりは私を支える一方で、関係の中に葛藤や緊張が続けば、大きな負担になることがあります。
役割をもつことは生活を成り立たせますが、責任や負担が大きくなりすぎれば、心身を疲れさせることもあります。
仕事は生活を支える大切な営みですが、働き方によっては休息する時間を失い、健康を損なうことがあります。
また、経済的な不安、孤立、居場所のなさ、必要な支援を得られないことなどによって、生活そのものが不安定になることもあります。
つまり社会は、私の生活を支える世界であると同時に、その関係や仕組みのあり方によっては、私の健康を損なうこともある世界です。
個人として健康に生きることは、社会から支えられるだけでなく、さまざまな負荷の中で自分の生活を保ち、必要に応じて周囲や社会の支援を受けながら生きることでもあります。
社会との関係は、生活を通して私の心に現れる
社会との関係は、私の外側だけで起こっているのではありません。
人との関係がうまくいけば安心し、自分の居場所があることで、生活にも落ち着きが生まれることがあります。
自分の役割を果たせたときには充実を感じ、誰かとのつながりの中で支えられていると感じることもあります。
その一方で、人間関係に緊張し、誰ともつながれないと感じれば孤独を覚え、生活の先行きが見えなければ不安を感じることがあります。
このように、社会との関係は、安心や不安、つながりや孤独、充実や負担、生きやすさや生きづらさとして、私の心に現れます。
社会との関係が私の健康にかかわるのは、それが単なる外側の生活条件だからではなく、その中で生きている私自身の経験として、心に現れるからです。
全人的健康は、社会との関係の中でも成り立っている
第2章では、身体としての私と自然との関係を通して、健康が一人の私の内側だけで完結するのではなく、私が生きている世界との関係の中でも成り立っていることを見ました。
本章でさらに見えてきたのは、その世界との関係には、個人として生きる私と社会との関係も含まれているということです。
私は、人との関係や役割をもち、社会のさまざまな仕組みに支えられながら、自分なりの生活を営んでいます。
その社会との関係は、私の健康を支える一方で、ときには生活に負担を与え、健康を損なうこともあります。
そして、その関係の中で生じる生活の状態は、一人の私の経験として私の心に現れます。
このように考えると、全人的健康には、個人として社会の中で、人とかかわり、自分なりの生活を営みながら生きられることも含まれていることがわかります。
身体としての私は、自然の中で生存しています。
個人としての私は、社会の中で生活しています。
しかし、私は生存し、生活するだけではありません。
私は、自分に起こったことについて考え、それが自分にとってどのような意味をもつのかを問い、何を大切にして生きたいのかを考えながら、自分の人生を生きています。
そこには、身体として生きることや、個人として生活することとは少し異なる、精神として生きる私の姿があります。
次章では、この精神として生きる私に目を向けながら、それが私の全人的健康にどのようにかかわっているのかを考えていきます。
第4章
私は、精神として文明の中で生きている
私は、文明の中で精神として生きている
前章では、個人としての私は社会の中で生活しており、社会との関係が私の健康を支える一方で、ときにはその健康を損なうこともあることを見てきました。
しかし、私は身体として生存し、個人として生活するだけではありません。
私は、自分に起こったことがどのような意味をもつのかを考え、何を大切にして生きたいのかを問いながら、自分の人生を生きています。
このように意味や価値を捉え、自分の生の方向を見いだそうとするのが、精神としての私です。
けれども、精神としての私は、自分一人だけで考え、自分一人だけで人生の意味を見いだしているわけではありません。
私は、すでにある言葉を使って考え、これまで受け継がれてきた知識を学び、人間が長い時間をかけて生み出してきたさまざまな考えや表現に触れながら、自分と世界を理解しています。
本書では、このように、人間が長い時間をかけて生み出し、蓄積し、受け継いできた言葉、知識、思想、表現などを、広く「文明」と捉えます。
その意味で、私は文明の外にいるのではなく、文明の中で精神として生きています。
私は、文明から言葉や知識、ものの見方を受け取っている
私は、自分一人で言葉をつくったわけではありません。
自分一人で、世界や身体についての知識を生み出したわけでもありません。
私たちは、生まれたときから、すでに長い時間をかけて受け継がれてきたさまざまなものに囲まれて生きています。
言葉を学ぶことで、自分が感じていることや考えていることを表すことができるようになります。
知識を学ぶことで、自分が直接経験したことのない世界についても知ることができます。
科学や医学に触れることで、自然や身体を、それまでとは違った視点から理解することができます。
歴史を知ることで、いま自分が生きている時代を、より長い時間の流れの中で見ることができます。
文学や芸術に触れることで、自分だけでは気づかなかった感情や、人のさまざまな生き方に出会うこともあります。
このように、精神としての私は、文明から言葉や知識、ものの見方を受け取りながら、自分と世界を理解しています。
私は、文明を通して自分の人生を考えている
文明から受け取った言葉や知識、ものの見方は、世界を理解するためだけのものではありません。
それらは、自分自身の人生を考えるための手がかりにもなります。
本を読むことで、自分が抱えていた悩みを、それまでとは違う角度から見られるようになることがあります。
文学や芸術に触れて、自分の中にあった感情に初めて気づくこともあります。
歴史や思想に触れることで、自分が当然だと思っていたものを問い直し、何を大切にしたいのかを改めて考えることもあります。
文明は、私に一つの正しい答えを与えるものではありません。
むしろ、自分は何を大切にしたいのか、この経験をどう受け止めるのか、これからどのように生きたいのかを考えるための言葉や視点や問いを与えてくれます。
私は、文明から受け取ったものを自分の経験に重ねながら、自分なりに人生を考えています。
文明との関係が、精神として生きる私を支えている
文明から受け取った言葉や知識、ものの見方は、自分に起こったことを理解し、何を大切にしたいのかを考えるための手がかりになります。
苦しい経験があっても、それを自分なりに受け止めるための言葉や見方をもつことで、その経験との向き合い方が変わることがあります。
また、これから先に大切にしたいものや向かいたい方向が見えてくれば、困難の中でも歩みを続ける支えになることがあります。
このように考えると、健康とは、身体の状態が保たれていることや、生活が安定していることだけではありません。
自分の経験を理解し、何を大切にするのかを考え、自分なりの方向をもちながら人生を生きられることも、私にとっての健康にかかわっています。
その意味で、文明との関係は、精神として生きる私を支えているのです。
文明との関係は、精神としての私を迷わせることもある
しかし、文明との関係が、いつも私の精神を支える方向に働くとは限りません。
科学や医学、技術の発展は、私たちに新しい知識を与えるだけでなく、これまでにはなかった可能性や選択肢を生み出してきました。
選択肢が増えるからこそ、何を選ぶのが自分にとってよいのか、迷うこともあります。
たとえば、医学の進歩によってさまざまな治療が可能になれば、治療を受けるかどうかだけでなく、どこまで治療を受けたいのか、生命を延ばすことと自分らしく生きることをどのように考えるのかという問いに向き合うことになります。
文明の発展は、私たちに多くの可能性を与えると同時に、その中から何を選び、何を大切にして生きるのかを、自分自身で考えることを求めます。
つまり文明は、人生を考えるための多くの言葉や可能性を与えてくれる一方で、何を信じ、何を大切にし、どのように生きるのかを迷わせることもある世界です。
精神として健やかに生きるためには、文明から受け取ったものをそのまま自分の答えとするのではなく、それらに触れながら、自分にとって何が大切なのかを考えていくことも必要になります。
文明との関係は、人生を通して私の心に現れる
文明との関係は、私の外側だけで起こっているのではありません。
ある言葉に触れて、「こんな見方もできるのか」と、それまでとは違った捉え方ができるようになることがあります。
自分にとって大切なものが見えてくれば、「これからはこう生きてみたい」と感じることもあります。
その一方で、何を大切にしたらよいのかわからなくなれば、迷いや空虚さを感じることもあります。
このように、文明との関係は、「何を大切にしたいかがわかる」「これからどう生きたいかが見えてくる」といった実感や、反対に、迷いや空虚さとして、私の心に現れます。
文明との関係が私の健康にかかわるのは、それが単に私の外側にある知識や文化だからではありません。
その中で考え、自分の経験を理解し、意味や価値を捉えながら人生を生きている私自身の経験として、心に現れるからです。
全人的健康は、文明との関係の中でも成り立っている
第2章では、身体としての私が自然の中で生き、自然との関係が私の健康にかかわっていることを見てきました。
第3章では、個人としての私が社会の中で生活し、社会との関係もまた私の健康にかかわっていることを見てきました。
そして本章では、精神としての私は文明の中で、自分と世界を理解し、意味や価値を捉えながら人生を生きていることを見てきました。
文明との関係は、人生に意味を感じられることや、自分の生の方向が見えること、あるいは迷いや空虚さとして、一人の私の心に現れます。
このように考えると、全人的健康には、精神として文明の中で、自分なりの意味や価値を捉え、自分の人生を生きられることも含まれていることがわかります。
これで、身体として自然の中に生きる私、個人として社会の中に生きる私、精神として文明の中に生きる私という三つの関係を見てきました。
次の終章では、ここまでの考察をもう一度一人の「私」に戻しながら、私にとっての全人的健康とは何かを考えていきます。
終章
私にとっての全人的健康とは何か
健康を生きているのは、一人の私である
ここまで、身体として自然の中に生きる私、個人として社会の中に生きる私、精神として文明の中に生きる私を見てきました。
身体としての私は生存し、個人としての私は生活し、精神としての私は人生を生きています。
しかし、それらを生きているのは、別々の私ではありません。
身体の調子を感じるのも、人との関係の中で生活するのも、自分にとって何が大切なのかを考えるのも、すべて同じ一人の「私」です。
身体・個人・精神は互いに切り離されているのではなく、生存・生活・人生を重ねながら、一人の私の生を形づくっています。
だからこそ、私の健康も、身体だけ、生活だけ、人生だけに分けて捉えることはできません。
健康を生きているのは、身体・個人・精神として一つの生を生きている、一人の私なのです。
私の健康は、世界との関係の中で成り立っている
一人の私の生は、私の内側だけで成り立っているわけではありません。
身体としての私は自然の中に、個人としての私は社会の中に、精神としての私は文明の中に生きています。
自然は身体としての私の生存を支え、社会は個人としての私の生活を支え、文明は精神としての私が人生を考え、生きていくことを支えています。
その一方で、自然の変化が身体に負担を与え、社会との関係が生活を苦しくし、文明の中で何を大切にして生きるのか迷うこともあります。
つまり私は、自然・社会・文明に支えられながら生きていると同時に、それらの変化や負荷の影響も受けながら生きています。
私の健康は、私自身の内側だけにある状態ではなく、私と自然・社会・文明との関係の中で成り立っています。
そして健やかに生きるとは、何の変化も負荷もない状態にとどまることではなく、さまざまな支えを受けながら、その時々の身体・生活・人生を調えて生きていくことでもあります。
全人的健康は、部分の足し算ではない
全人的健康とは、身体の健康、生活の健康、精神的な健康を別々に並べ、それらを足し合わせたものではありません。
実際に生きている一人の私の中では、身体・生活・人生は互いにつながり、自然・社会・文明との関係も重なり合っています。
一つの出来事が身体に影響し、生活を変え、人生について考え直すきっかけになることもあれば、人とのつながりや人生の意味が、身体や生活を支えることもあります。
したがって、「全人的」とは、健康について考える項目を増やすことではありません。
分けて理解したものを、最後には、それらすべてを生きている一人の私へ戻し、一つの生として捉えることです。
その意味で、全人的健康とは、身体・個人・精神という部分を集めた健康ではなく、一人の私の生を、その全体として捉えた健康なのです。
なぜ、健康を全人的に考える必要があるのか
では、なぜ健康を全人的に考える必要があるのでしょうか。
一つは、一人の私の健康を、生全体として捉えるためです。
身体の状態や検査値を知ることは大切ですが、私は身体として生きているだけではなく、個人として生活し、精神として人生を生きています。
だからこそ、私の健康を考えるためには、身体だけではなく、生存・生活・人生を重ねながら生きている一人の私を見る必要があります。
もう一つは、私の健康を支えているもの、損なっているものを、私と世界との関係の中で捉えるためです。
私は、自然・社会・文明との関係の中で支えられる一方で、その変化や負荷によって健康を損なうこともあります。
全人的に健康を見ることで、何が自分の健康を損なっているのかだけではなく、今の自分を何が支えているのか、そして自分の生のどこを調えていく必要があるのかも見えてきます。
つまり、健康を全人的に考えるのは、健康について見る項目を増やすためではありません。
一人の私の生全体と、その私を取り巻く世界との関係を見つめながら、「私にとって健やかに生きるとはどういうことか」を考えるためなのです。
私にとっての全人的健康とは何か
本書は、
「私にとって健康であるとは、どういうことか」
という問いから始まりました。
ここまで見てきたように、私は身体として自然の中に、個人として社会の中に、精神として文明の中に生きています。
そして、それらを生きているのは、すべて同じ一人の私です。
そこから、私にとっての全人的健康を、次のように捉えることができます。
全人的健康とは、自然・社会・文明との関係の中で、身体・個人・精神として生きる一人の私が、自分の生全体を通して、「私は自分なりに健やかに生きている」と実感できることである。
ここでいう「健やかに生きている」とは、病気も不安も迷いもない、完全な状態を意味するものではありません。
身体も、生活も、人生も変化し、私と自然・社会・文明との関係も変わっていきます。
その変化の中で、必要な支えを受けながら、自分なりの健やかさを保ち、調え、ときには取り戻していくことができます。
その意味で、全人的健康は、一度手に入れればそのまま続く固定された状態ではありません。
変化する世界の中で、支えられながら、自分なりの健やかさを保ち、調え、ときには取り戻しながら生きていくこと。
そのように生きる一人の私の全体に、全人的健康はあるのだと思います。
補遺1
私は、自然・社会・文明の生成に参与している
私は、世界から受け取るだけではない
ここまで本書では、私は身体として自然の中に、個人として社会の中に、精神として文明の中に生きていることを見てきました。
自然からは、身体として生きるために必要な空気や水や食物を受け取っています。
社会からは、人とのつながりや、生活を成り立たせるさまざまな仕組みによって支えられています。
文明からは、言葉や知識、ものの見方を受け取りながら、自分と世界を理解し、自分の人生を考えています。
このように、私は自然・社会・文明に支えられながら生きています。
しかし、私と世界との関係は、世界から私へ向かう一方向のものではありません。
私は、身体を動かし、人とかかわり、働き、考え、語り、何かをつくりながら生きています。
そうした一つ一つの営みは、周囲の自然や人との関係、受け継がれていく言葉や考えに、何らかの変化をもたらします。
私は世界から受け取るだけでなく、自らも世界へ働きかけながら生きています。
その意味で私は、自然・社会・文明の中で生きる存在であると同時に、それらの生成に参与する存在でもあるのです。
私は、身体として自然の営みに参与している
身体としての私は、自然の外側にいるのではありません。
私は呼吸し、水を飲み、食物を食べ、身体を動かし、熱を放ち、不要になったものを外へ出しながら生きています。
身体として生きることそのものが、自然との絶え間ないやり取りの中にあります。
私は自然から必要なものを受け取り、それを身体の中で利用し、再び外へ返しながら生命を保っています。
この意味で、私は一つの生命として自然の営みの中に加わっています。
しかし、人間として自然に働きかけるのは、こうした生命活動だけではありません。
私たちは、住む場所を整え、植物を育て、土地や資源を利用し、さまざまなものをつくりながら生活しています。
何を食べるのか、何を使うのか、どのように移動するのか、何を捨てるのかという日々の選択も、自然との関係を少しずつ変えていきます。
自然を守ろうとする行動も、自然に負荷を与える行動も、人間が自然へ働きかけている姿です。
もちろん、私一人が自然そのものをつくっているわけではありません。
けれども私は、自然の一部として生命を営みながら、同時に人間としての行動を通して自然環境にも働きかけています。
身体としての私は、自然に生かされながら、自然の営みや変化にも参与しているのです。
私は、個人として社会を形づくっている
個人としての私は、人との関係や社会の仕組みに支えられながら生活しています。
しかし、私は社会から支えられるだけの存在ではありません。
家族に声をかけることも、仕事をすることも、誰かを助けることも、約束を守ることも、自分の考えを伝えることも、人との関係に何らかの変化を生み出します。
私は誰かから支えられると同時に、自分もまた誰かを支えることがあります。
家庭や職場、地域の中で自分の役割を果たすことも、その場の生活を成り立たせる一つの働きです。
社会というと、法律や制度のような大きな仕組みを思い浮かべるかもしれません。
しかし社会は、人と人との日々の関係や行動によっても保たれ、少しずつ変化しています。
私が相手にどのように接するのか、どのような仕事をするのか、どのような関係をつくるのかということも、その社会のあり方の一部になります。
一人の行動は小さく見えても、多くの人の行動が重なり合うことで、社会のあり方は少しずつ形づくられていきます。
私は、社会の中で生活する一人の個人であると同時に、日々の関係と行動を通して社会を形づくっている一人でもあるのです。
私は、精神として文明を受け継ぎ、つくり変え、次へ渡している
精神としての私は、文明から多くのものを受け取っています。
私は、すでにある言葉を使って考え、これまで蓄積されてきた知識を学び、文学や芸術、思想や科学などに触れながら、自分と世界を理解しています。
けれども、受け取ったものをそのまま自分の中に保存しているだけではありません。
私は、学んだことについて考え、自分の経験と結びつけ、自分なりに理解します。
そして、その理解を誰かに話したり、教えたり、文章に書いたり、新しい表現として形にしたりすることがあります。
そのとき、過去から受け取ったものは、私という一人の人間を通ることで少しずつ変わります。
同じ言葉や知識であっても、自分自身の経験と結びつくことで、新しい理解や表現が生まれることがあります。
そして、それを誰かに伝えれば、その人がさらに自分なりに受け取り、考え、次へ渡していきます。
文明は、過去から完成されたものとして与えられるだけではなく、人々が受け取り、考え、つくり変え、次へ渡すことによって生き続けています。
私は、文明の受け手であると同時に、文明を受け継ぎ、つくり変え、次へ渡していく一人の担い手でもあるのです。
世界の生成への参与は、日々の生の中にある
自然・社会・文明の生成に参与すると言うと、何か特別で大きなことをするように聞こえるかもしれません。
しかし、世界の生成への参与は、私たちの日々の生の中にあります。
私が何を食べ、何を使い、どのように暮らすかは、自然との関係の一部になります。
私が人にどのように接し、どのような役割を果たすかは、社会のあり方の一部になります。
私が何を学び、何を考え、何を伝えるかは、文明が次へ受け継がれていく過程の一部になります。
一つ一つの行為だけを見れば、その影響は小さく見えるかもしれません。
それでも私は、生きて行動しているかぎり、世界と無関係なままでいることはできません。
世界の生成への参与は、特別な人だけが行うものではなく、私たちが日々を生きていることそのものの中にあるのです。
私の働きかけは、世界を傷つけることもある
しかし、私が世界に働きかけることが、いつも世界をよりよいものにするとは限りません。
私の行動は、自然を守る方向に働くこともあれば、自然に負荷を与えることもあります。
人とのかかわりは、相手を支えることもあれば、自分の言葉や行動によって相手を傷つけ、関係を壊すこともあります。
私が語り、伝える情報や考えも、人の理解を深めることもあれば、誤解や偏見、対立を広げることもあります。
つまり、世界の生成に参与するということは、世界を支え、豊かにすることだけを意味するものではありません。
私の働きかけは、世界を支えることもあれば、傷つけ、損なうこともあります。
しかも、一つ一つは小さな行動であっても、それが多くの人の行動と重なり合えば、より大きな変化につながることがあります。
世界へ働きかけながら生きるということは、自分の行動によって生じる変化と、まったく無関係ではいられないということでもあります。
だからこそ、世界の生成に参与している自分が、世界にどのように働きかけているのかを見つめることにも意味があるのです。
三つの世界へ働きかけているのも、一人の私である
ここまで、身体として自然の営みに参与する私、個人として社会を形づくる私、精神として文明を受け継ぎ、つくり変える私を見てきました。
しかし、これらも別々の三人の私ではありません。
自然に働きかけているのも、社会の中で人とかかわっているのも、文明を受け取り、考え、表現しているのも、すべて同じ一人の私です。
そして、その三つの働きかけも互いに切り離されているわけではありません。
何を大切にしたいのかという自分の考えが変われば、生活の中での選択が変わることがあります。
生活の中での選択が変われば、人との関係や社会へのかかわり方も変わります。
そして、どのようなものを使い、どのように暮らすかが変われば、自然への働きかけも変わります。
逆に、自然の中での経験や社会の中での出来事が、自分の考え方や価値観を変えることもあります。
身体・個人・精神として生きる一人の私は、自然・社会・文明に別々に働きかけているのではありません。
私は、生存・生活・人生を重ねながら一つの生を生き、その一つの生を通して自然・社会・文明のすべてにかかわっています。
世界の生成に参与しているのも、身体・個人・精神として生きている、一人の「私」なのです。
私は、世界に支えられながら、世界を形づくっている
本書では、私は自然・社会・文明との関係の中で支えられ、ときにはその変化や負荷によって健康を損なわれながら生きていることを考えてきました。
この補遺では、その関係には、もう一つの方向があることを見てきました。
世界が私に働きかけているだけではなく、私もまた世界へ働きかけています。
私は、自然から受け取りながら自然に働きかけ、社会から支えられながら社会を形づくり、文明から受け継ぎながら文明を次へ渡しています。
つまり、私と世界との関係は、どちらか一方だけが他方に影響する関係ではありません。
私は世界によって形づくられながら、同時に、自分の生を通して世界を形づくっています。
その働きかけは、世界を支え豊かにすることもあれば、傷つけ損なうこともあります。
それでも私は、世界と無関係に生きることはできません。
私は、世界に支えられる存在であると同時に、自らの生を通して、自然・社会・文明のあり方にも働きかけている存在なのです。
次の補遺では、自然・社会・文明が互いにどのようにつながり、その世界の健全さが私の全人的健康とどのようにかかわっているのかを考えていきます。
補遺2
健全な世界は、私の全人的健康を支えている
自然・社会・文明は、互いに切り離されていない
本書では、身体として自然の中に生きる私、個人として社会の中に生きる私、精神として文明の中に生きる私を、それぞれ分けて見てきました。
しかし、私が実際に生きている世界では、自然・社会・文明が、それぞれ独立して存在しているわけではありません。
社会の営みは、自然から得られる水や食物、土地や資源などに支えられています。
文明から生まれた言葉や知識、思想や科学、さまざまな表現は、社会の中で人から人へと受け継がれています。
そして、文明から生まれた知識や技術は、私たちの生活や社会の仕組みを変え、自然とのかかわり方を変えることもあります。
自然・社会・文明は、別々に存在する三つの世界というよりも、互いにかかわり合いながら、私たちが生きる一つの世界を形づくっています。
本書では、身体・個人・精神という三つの在り方を分けて考え、最後には、それらを一つの生を生きる一人の私へ戻しました。
同じように、自然・社会・文明についても、分けて理解したあとで、それらがつながり合う一つの世界として捉えることができます。
私は、自然・社会・文明がつながり合う一つの世界の中で生きているのです。
一つの世界の変化は、さまざまなところへ広がっていく
自然・社会・文明が互いにつながっているなら、一つのところで起こった変化は、そこだけにとどまるとは限りません。
自然環境の変化が人々の生活に影響し、それによって社会の仕組みや生活のあり方が変わることがあります。
新しい知識や技術が生まれることで、人とのかかわり方や働き方が変わり、さらに自然とのかかわり方が変わることもあります。
このように、あるところで生じた変化は、つながりを通して別のところへ広がっていくことがあります。
もちろん、すべての変化が同じように広がるわけではありません。
それでも、自然・社会・文明が互いにつながっている以上、一つの変化が別の変化を生み、それらが重なりながら世界のあり方を変えていくことがあります。
私たちが生きている世界は、さまざまな変化が互いに影響し合いながら動いている世界なのです。
世界の不健全さは、私の生全体に及ぶ
自然・社会・文明がつながっているなら、そのどこかに生じた大きな負荷も、一つの領域だけにとどまらないことがあります。
自然環境の悪化が、人々の生活を不安定にし、社会のあり方にも影響することがあります。
社会の不安定さが、生活だけでなく、身体の状態や人生への見通しに影響することもあります。
また、文明の中で生まれた知識や技術、価値観が、社会や自然との関係を変え、その影響が私たちの生活へ及ぶこともあります。
そして、その影響を受ける私自身も、身体・個人・精神に分かれて生きているわけではありません。
私は、生存・生活・人生を重ねながら、一つの生を生きています。
だからこそ、世界の一つの領域に生じた不健全さが、さまざまなつながりを通して、私の身体・生活・人生へと広がることがあります。
世界の不健全さは、一人の私の生全体に及び、私の全人的健康を損なうことがあるのです。
健全な世界は、私の生存・生活・人生を支えている
反対に、私が健やかに生きるためには、私自身の状態だけでなく、私が生きている世界のあり方も大切です。
本書で見てきたように、自然は身体としての私の生存を支え、社会は個人としての私の生活を支え、文明は精神としての私が自分と世界を理解し、自分の人生を考えることを支えています。
しかし、自然・社会・文明は互いに切り離されているわけではありません。
それぞれが私を支えるだけでなく、互いにかかわり合いながら、一つの世界として私の生を支えています。
だからこそ、私の全人的健康にとっては、自然・社会・文明のそれぞれだけでなく、それらのつながりが大きく損なわれないことも大切です。
健全な世界は、私の生存・生活・人生を支え、それによって一人の私の全人的健康を支えているのです。
世界の健全さとは、変化しないことではない
では、世界が健全であるとは、どのようなことでしょうか。
自然は変化し、社会も変化し、文明も変化していきます。
したがって、世界が健全であるということを、何も変わらず、問題も負荷も起こらない状態と考える必要はありません。
変化することそのものが、不健全なのではありません。
これは、本書で考えてきた私自身の健康にも通じています。
私にとっての全人的健康も、病気も不安も迷いもない完全な状態ではなく、変化する世界の中で、支えられながら、自分なりの健やかさを保ち、調え、ときには取り戻しながら生きていくことでした。
同じように世界の健全さについても、変化しないことではなく、変化の中で自然・社会・文明の関係が保たれ、必要に応じて調えられながら続いていくこととして考えることができます。
私の健康と世界の健全さは、つながっている
ここまで考えてくると、私の健康と世界の健全さは、切り離して考えることができないことが見えてきます。
私は、自然・社会・文明がつながり合う世界の中で、生存し、生活し、人生を生きています。
その世界が私を支えることによって、私は自分なりの健やかさを保ちながら生きることができます。
しかし、世界から私へ働きかけるだけではありません。
前の補遺で見たように、私もまた、身体として自然の営みに参与し、個人として社会を形づくり、精神として文明を受け継ぎ、つくり変え、次へ渡しています。
その働きかけは、世界を支え豊かにすることもあれば、傷つけ損なうこともあります。
したがって、私と世界との関係は、一方向のものではありません。
私は世界に支えられながら生き、その私もまた、自らの生を通して世界のあり方にかかわっています。
私の健康と世界の健全さは、このような双方向の関係の中でつながっているのです。
私の全人的健康は、世界の健全さへと開かれている
本書は、
「私にとって健康であるとは、どういうことか」
という問いから始まりました。
そして、健康を生きている一人の私は、身体として自然の中に、個人として社会の中に、精神として文明の中に生きていることを見てきました。
だからこそ、私にとっての全人的健康を考えていくと、私自身の身体・生活・人生だけでなく、私が生きている世界にも目が向いていきます。
私が健やかに生きるためには、自分自身を調えることが大切です。
しかし、その私を支えている自然・社会・文明がどのような状態にあり、それらがどのような関係にあるのかも、私の健康と無関係ではありません。
そして私は、その世界から支えを受けるだけではなく、自分の生を通して世界へ働きかけています。
そう考えると、「私にとって健康であるとはどういうことか」という問いは、私一人の内側だけで完結する問いではありません。
私にとっての全人的健康を深く考えていくことは、私がどのような世界の中で生き、その世界とどのようにかかわりながら生きていくのかを考えることへとつながっていきます。
奥付
私の心と全人的健康
自然、社会、文明の中で生きる私
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