はじめに
大切な人が重い病気になったとき、私たちは深く揺さぶられます。
親、配偶者、きょうだい、友人。
自分にとってかけがえのない人が、治療の難しい病気になったと知らされたとき、私たちは「何かしてあげたい」と思います。
少しでも楽にしてあげたい。
不安を減らしてあげたい。
一人にしたくない。
後悔しないように関わりたい。
そう思うのは、とても自然なことです。
けれど、その思いが強いほど、かえって頭の中は混乱します。
何を優先すればよいのか。
何を聞けばよいのか。
どこまで踏み込んでよいのか。
医療者に何を相談すればよいのか。
自分の生活はどうすればよいのか。
考えなければならないことが一気に押し寄せて、何から手をつければよいのかわからなくなることがあります。
そのようなときに少し助けになるのが、Lifeを三つの層に分けて考える視点です。
ここでいうLifeには、三つの意味があります。
身体として生きている 生命。
日々を過ごしている 生活。
そして、その人が歩んできた 人生。
大切な人が重い病気になったとき、私たちにできることは、決して一つではありません。
生命を支えること。
生活を守ること。
人生を尊重すること。
この三つに分けて考えると、混乱の中でも、いま自分にできることが少し見えやすくなります。
生命としてのLifeを支える
まず考えたいのは、生命としてのLifeです。
重い病気になった人にとって、身体と心に直接あらわれる苦痛はとても切実です。
痛み、息苦しさ、咳、だるさ、不眠、食欲低下、吐き気、便秘、不安、気持ちの落ち込みなど、苦痛にはさまざまな形があります。
こうした苦痛があると、その人は日々を過ごすだけでも大きな力を使います。
家族や身近な人ができることは、その苦痛をすべて自分で解決することではありません。
むしろ、本人のつらさに気づき、それを医療者につなぐことが助けになります。
たとえば、無理のない範囲で、次のようなことを確認することができます。
「痛みを我慢していないか」
「夜は眠れているか」
「息苦しさはないか」
「食べることが負担になっていないか」
「いま一番つらいことは何か」
こうした問いは、本人の状態を知る手がかりになります。
そして、医療者に相談するときの大切な情報にもなります。
とくに、治すことが難しい病気の場合、家族は「もうできることがない」と感じてしまうことがあります。
しかし、治すことだけが支えではありません。
苦痛を和らげること。
少しでも眠れるようにすること。
息苦しさを軽くすること。
不安を一人で抱え込ませないこと。
食べられないことを責めず、楽に過ごせる方法を一緒に考えること。
これらも、支えになります。
緩和ケア、訪問看護、薬剤師、ケアマネジャーなど、頼れる人たちの力を借りてよいのです。
緩和ケアは、人生の最期だけのものではなく、病気による苦痛を和らげるための支援です。
生命としてのLifeを支えるとは、病気を必ず治すという意味ではありません。
その人がいま感じている苦しさを、少しでも軽くするために、周囲の力をつなげていくことです。
生活としてのLifeを守る
次に考えたいのは、生活としてのLifeです。
重い病気になると、その人は「患者」として見られる時間が増えます。
診察、検査、治療、薬、介護、病状説明。
日々の多くが、病気を中心に動き始めます。
しかし、その人は病気になる前から、生活をしてきた一人の人です。
いつもの部屋。
座り慣れた椅子。
好きなお茶。
好きな音楽。
庭の花。
家族との何気ない会話。
昔の写真。
少しだけ食べたいもの。
朝の光や、夕方の静けさ。
そうした小さな日常の中に、その人らしさがあります。
家族は、何か特別なことをしなければならないと思いがちです。
どこかへ連れて行かなければ。
思い出を作らなければ。
何か大きなことをしてあげなければ。
もちろん、本人が望み、体力的にも可能であれば、そのような時間も意味があります。
けれど、支えは大きな出来事だけではありません。
いつものように声をかける。
好きなものを少し用意する。
疲れているときは無理に話しかけない。
会いたい人に会えるようにする。
反対に、会うことが負担になる人との調整をする。
安心できる場所で過ごせるようにする。
こうしたことも、その人の生活を守る支えになります。
病気になっても、その人の日常は続いています。
そして、その日常の中に、その人がその人であり続けるための手がかりがあります。
生活としてのLifeを守るとは、その人を「病気の人」だけにしないことです。
病気を抱えながらも、好きなものがあり、安心できる場所があり、大切にしてきた時間がある。
そのことを周囲が忘れないことです。
ただし、ここでも本人の希望を尊重することが必要です。
「何がしたい?」
「誰に会いたい?」
「何を食べたい?」
と尋ねることは役に立つ場合があります。
一方で、それが問い詰めるような形になると、本人にとって負担になることもあります。
話したいときは話せる。
休みたいときは休める。
決められないときは、決めなくてもよい。
その余白を残すことも、生活を守ることの一部です。
人生としてのLifeを尊重する
三つ目は、人生としてのLifeです。
重い病気になると、周囲の関心はどうしても病状に向かいます。
病気はどのくらい進んでいるのか。
治療はできるのか。
余命はどのくらいなのか。
これからどこで過ごすのか。
もちろん、それらは大事なことです。
しかし、その人は病気だけでできているわけではありません。
その人には、これまで歩んできた人生があります。
うれしかったこと。
苦労したこと。
大切にしてきたこと。
守ってきたもの。
誰かに伝えたいこと。
心配していること。
言葉にしないまま抱えている思い。
大切な人を支えるとは、その人の人生を、最後まで一人の人生として尊重することでもあります。
本人が話したいようであれば、昔の話を聴くことができます。
「一番楽しかったのはどんな時期だった?」
「よく頑張ったと思うことはある?」
「今、気がかりなことはある?」
「誰かに伝えておきたいことはある?」
「してほしいこと、してほしくないことはある?」
こうした問いが、その人の人生を受け取るきっかけになることもあります。
けれど、人生の話を無理に引き出す必要はありません。
すべての人が、自分の人生を言葉で整理したいわけではありません。
家族関係がいつも穏やかであるとも限りません。
本人が不安や怒りを抱えていることもあります。
支える側も、いつも優しくいられるわけではありません。
だから、人生としてのLifeを尊重するとは、必ず深い対話をすることではありません。
その人を、こちらの理想の物語に押し込めないこと。
立派な最期を求めないこと。
感謝や和解を急がないこと。
話したくない沈黙も尊重すること。
それもまた、その人の人生を尊重することです。
言葉にできるなら、
と伝えることができます。
言葉にならないときは、ただそばにいるだけでもよいかもしれません。
手を握ること。
同じ部屋で静かに過ごすこと。
その人が眠っている時間を見守ること。
人生としてのLifeを尊重するとは、その人の人生を、病気だけで塗りつぶさないことです。
最後まで、一人の人として見ることです。
支える側の私たちもまた、未病の状態に入りやすい
ここまで、大切な人を支えるために、生命・生活・人生の三つの層から考えてきました。
しかし、もう一つ忘れてはいけないことがあります。
それは、支える側の私たち自身もまた、大きく揺らいでいるということです。
大切な人が重い病気になったとき、揺らぐのは病気になった本人だけではありません。
支える側も、眠れなくなることがあります。
食欲が落ちることがあります。
疲れているのに休めないことがあります。
頭がぼんやりして、考えがまとまらなくなることがあります。
不安、悲しみ、怒り、罪悪感、後悔が次々に押し寄せることもあります。
仕事に集中できない。
家族との関係がぎくしゃくする。
病院や介護のことで生活のリズムが崩れる。
自分だけが何もできていないように感じる。
もっと何かできるのではないかと、自分を責める。
このような状態は、まだ明確な病気とは言えないかもしれません。
しかし、生命・生活・人生の調和は大きく揺らいでいます。
このような状態を、未病として考えることができます。
未病とは、単に「病気の手前」というだけではありません。
生命・生活・人生の調和が揺らぎ、心身が病気になりやすい方向へ傾いている状態として捉えることができます。
大切な人の病気に直面したとき、支える側の私たちはまさにこの未病の状態に入りやすくなります。
それは、弱いからではありません。
相手を大切に思っているからこそ、深く揺らぐのです。
だからこそ、大切な人を支えるときには、自分自身のLifeにも目を向ける必要があります。
自分を守ることも、大切な人を支えることの一部である
大切な人が苦しんでいるとき、自分をいたわることに罪悪感を覚える人は少なくありません。
自分が休んでいてよいのだろうか。
自分が食事をしていてよいのだろうか。
自分が眠っている間に、何かあったらどうしよう。
もっとそばにいるべきではないか。
そのように感じるのは自然なことです。
けれど、支える側が倒れてしまえば、支え続けることは難しくなります。
自分を守ることは、相手を見捨てることではありません。
大切な人のそばに居続けるための土台です。
ここでも、Lifeの三層で考えることができます。
自分の生命としてのLife
眠れているか。
食べられているか。
疲れが限界を超えていないか。
胸が苦しい、動悸がする、涙が止まらないなどの状態が続いていないか。
こうした変化があれば、自分一人で抱え込まず、周囲や専門家に相談することも考えてよいでしょう。
自分の生活としてのLife
通院の付き添い、介護、仕事、家事、家族との調整。
それらを一人で抱え込みすぎていないか。
頼れる人はいるか。
使える制度やサービスにつながっているか。
一人で頑張ることが、いつの間にか当たり前になっていないか。
自分の人生としてのLife
自分は、この大切な人との時間をどう受け止めたいのか。
何を大事にして関わりたいのか。
完璧にはできない中で、何だけは大切にしたいのか。
後から振り返ったとき、自分なりに誠実に関わったと思えることは何か。
この問いに、すぐ答えを出す必要はありません。
ただ、ときどき立ち止まり、自分自身にもLifeがあることを思い出すことが助けになります。
大切な人を支えることと、自分を守ることは、対立するものではありません。
自分を壊さずにそばにいること。
それもまた、大切な人を支える一つの形です。
「できること」は、完璧でなくてよい
大切な人が重い病気になったとき、私たちは「後悔したくない」と思います。
その思いは、とても自然です。
しかし、どれほど一生懸命に関わっても、まったく後悔のない支え方は難しいかもしれません。
もっと早く気づけばよかった。
もっと話を聞けばよかった。
もっと優しくすればよかった。
別の選択があったのではないか。
人は、大切な人を思うほど、後からさまざまなことを考えます。
だからこそ、完璧な支え方を目指しすぎないことも大切です。
毎日優しくできなくてもよい。
すべてを理解できなくてもよい。
正しい言葉を言えなくてもよい。
泣いてしまう日があってもよい。
そばにいるだけの日があってもよい。
誰かに頼ってもよい。
支えるとは、いつも強く、正しく、穏やかでいることではありません。
揺らぎながらも、その人を大切に思い続けることです。
できる範囲で、誠実に関わろうとすることです。
大切な人の病気を前にすると、私たちは無力感を覚えます。
確かに、できないことはたくさんあります。
病気そのものを思い通りにすることはできません。
残された時間を自由に増やすこともできません。
それでも、できることはあります。
苦痛を和らげるために、医療者につなぐこと。
その人らしい日常を守ること。
その人の人生を、最後まで一人の人生として尊重すること。
そして、自分自身を壊さずに、できる形でそばにいること。
それらは、小さく見えても、かけがえのない支えです。
おわりに
大切な人が重い病気になったとき、私たちに何ができるのか。
この問いに、簡単な答えはありません。
病気の種類も、本人の思いも、家族の関係も、生活の事情も、一人ひとり違うからです。
それでも、Lifeの三層に分けて考えると、少し整理しやすくなります。
生命としてのLifeを支える。
身体と心の苦痛を少しでも和らげ、必要な医療やケアにつなぐこと。
生活としてのLifeを守る。
病気になっても、その人らしい日常や安心できる時間を大切にすること。
人生としてのLifeを尊重する。
その人が歩んできた人生を、最後まで一人の人生として受け取ること。
そして、支える側の自分自身のLifeも守る。
眠ること、食べること、休むこと、誰かに頼ること。
それは、大切な人を見捨てることではなく、そばに居続けるために必要なことです。
私たちにできることは、病気を思い通りにすることではなく、その人のLifeに、できる形で寄り添うことなのだと思います。
大切な人のLifeに寄り添いながら、自分自身のLifeも守る。
その静かな営みの中に、私たちにできる支えがあるのだと思います。
